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(2) 三方郡美浜町~小浜市遠敷


展望台から三方五湖を見渡すレインボーライン展望台付近


◎ 河原市・郷市(三方郡美浜町)

 美浜町河原市は左手から耳川に沿って滋賀県境粟柄峠から下りてきた道、すなわち古代北陸道が交差した交通の要衝でした。

 この付近には河原市のほか南市、郷市など「市」と名のつく集落名が残っており、代わる代わる場所を移して市場が開かれたようです。

 河原市は、かって耳川の河原で市が開かれたといわれ、氏神に市姫神社を祀っております。

 昭和41年(1966)丹後街道が改良され集落の北側に国道27号が新設されて一段と交通が便利になりました。

 一方、郷市は耳川の下流左岸の丹後街道沿いに開けた市場で、地名の由来は山西郷の郷の市に由来するといわれます。 

 右岸には河原市があり、ここも市姫神社が祀られています。

 「延喜式」にある弥美駅家の所在について江戸時代の国学者、伴 信友は「今の山西郷村の辺りなるべし、

其れは駅を置かるる里数等の今に拠りて考たるなり」と解釈しています。

 現在は美浜町の中心地として国道27号沿いに商業地を形成し、郷市から日向、久々子、早瀬に向かう道が

分岐して県道日向・郷市線と呼ばれ、三方五湖めぐりや夏は海水浴客で賑わっています。



三方五胡三方観音


◎ 気山津(三方郡気山)

  気山津は水月湖、菅湖の東岸に位置し、北は久々子湖に面した所です。

 古代から11世紀中期までの若狭・越前以外の北陸道諸国の官物運送は敦賀津に陸揚げされて塩津(滋賀県)を通る道筋を利用していました。

 ところが11世紀後半になると気山津の刀禰層が成長して、官物運送は気山津から倉見峠を越え、熊川経由で木津(滋賀県)を向かう道筋ができ複線化したと推定されています。

 南北朝期以降、気山津は衰退し、これに代って若狭では小浜津が発展してきます。

 気山津の衰退した原因は気候の変化に伴う海退現象によって湊に入船できなくなったためと考えられています。



◎ 三方(三方郡三方町)

 三方は三潟とも書き、三方湖の東に位置し、三つの潟のあるところという意味で地名の由来となり、古代から三方郷として見える三方郡五郷の1つです。
 
 平安期から鎌倉期の三方郷は世久見、田井、向笠を含んだ地域を指しましたが、それらが浦や保、荘として自立した後、

 鰣川
(はすかわ)下流域が、この時期の三方郷をさすと考えられています。
 
 江戸期、三方郡三方村として小浜藩領に属し、藩主酒井氏が入封に際し当村の臥龍院に寄宿したことから、

 以後、藩主が江戸参勤交代のときに当院で中食するようになりました。

 また、観音川中流域の山中にある三方観音は弘法大師の作と伝えられ、参詣者で賑わっています。

 明治22年(1889)八村の大字となり、昭和28年(1952)八村と西田村が合併して三方町三方として現在に至っています。



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◎ 倉見峠(三方郡三方町・遠敷郡上中町)

 三方町倉見と上中町安賀里の境にある標高約130mの峠で、かっては、この峠を丹後街道が通り現在は国道27号が引き継いでおります。

 鰣川上流の倉見側、安賀里川上流の安賀里側、ともに比高が50mありますが、現在の峠は、かなり切り下げられました。

 急勾配ではありませんが、街道の要地として安賀里の東の山頂に中世の城跡があり、峠道を扼しました。

 なお、JR小浜線は峠を避けて北よりに迂回し、十村(三方町十村)から大鳥羽(上中町大鳥羽)に出ています。



弥美神社例大祭と王の舞(美浜町)三方五湖舟小屋風景(三方町)


 三方町から倉見峠を越え遠敷郡に入ります。遠敷郡は若狭の中央にあたる郡で、中世には上中、中、下中の三つに分かれていました。

 峠を下りたところが上中町ですが、これは中世の「上中」の地名(郷名)を受け継いでつけられたものです。



◎ 遠敷郡の概要

  古代から現在までの郡名で、「延喜式」に若狭国三郡の1つとして見え、最初「小丹生郡」でしたが、和銅6年(713)以後「遠敷郡」に変わりました。

 平安期の天長2年(825)遠敷郡から「大飯郡」が分立しました。

 当初、遠敷郡は国衙の支配が強く荘園化の進行しない地域でしたが、12世紀になると郡内に中手西郷、東郷、名田郷など新しい郷が成立し、

 それとともに数多くの別名が現れ、名田庄、西津荘といった名も、この頃できました。

 鎌倉末期から室町期にかけては若狭姫神社門前の遠敷市が定期市として賑わいました。

 この頃から小浜津が発展し、南北朝期以降、守護所や税所
(さいしょ)の政所が小浜や西津に置かれ市街化していきました。

 室町期、小浜湊は北からの津軽船、南からの南蛮船が着く湊に成長し、小浜と近江今津を結ぶ九里半街道の物資運送が盛んになりました。

 永享12年(1440)一色氏に代って守護となった武田氏は、小浜に守護所を置き、

 戦国期の大永2年(1522)には小浜の西にある後瀬山に築城したと伝えられています。



◎ 日笠(遠敷郡上中町)

  倉見峠から下ってきた道は安賀里川に沿って西進し、鳥羽川との合流点付近で渡河すると

 杉山川に沿って加福六(上中町兼田)へ進み、北川との合流点付近で再び渡河して対岸の日笠(上中町日笠)に出ました。

 日笠は北川中流左岸の平地に位置した集落で、近くに古墳中期の築造と推定される下船塚古墳と

 後期と推定される上船塚古墳があり、ともに前方後円墳で国史跡になっています。

 また、文化13年(1816)の「右しゅんれい道 左北国ゑちぜん道」と記された道標(上中町指定文化財)が残っており、

 日笠は丹後街道と若狭街道(九里半街道・鯖街道・巡礼道とも呼ばれた)の分岐点になっていました。

 国鉄小浜線が開通する大正7年(1918)頃まで、日笠は人馬の往来で賑わったそうです。

 丹後街道は日笠を過ぎると西進し、平野、太興寺、遠敷、小浜と進むのですが、若狭街道は小浜から

 近江今津(滋賀県)までの距離から九里半街道と呼ばれたり、巡礼道、鯖街道と呼ばれたりしました。

 なお、若狭街道は小浜から日笠まで丹後街道と重なり合いますが、日笠で分岐して近江今津へ向かいました。

 その宿駅として「熊川宿」が有名なので寄り道していきます。



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熊川宿の風景(上中町)熊川宿の風景(上中町)


◎熊川(遠敷郡上中町)

  熊川は北川上流域の山間部に位置した集落で江戸期に熊川宿として栄えたところです。

 現在、国の重要伝統的建築物群保存地区になっており県内外の観光客で賑わっています。

 ここは古代から若狭の海産物を都へ運ぶ道筋に当たりましたが、軍事的にも重視され、

 室町期に沼田主計が熊川城を構築し、その子勘解由が熊川城主になったと伝えられます。

 沼田氏の在城は永禄12年(1569)頃まで続いたようですが、この頃、瓜生村を本拠とした

 松宮玄蕃允清長との戦いに敗れて近江へ落ち、代って清長の子左馬亮が城主になった伝えられます。

 元亀元年(1570)4月22日、織田信長が越前侵攻の途中、熊川に着くと若狭国内の諸将とともに

 熊川城主松宮嫡子左馬亮も出迎え、信長は「若州熊川松宮玄蕃所」に宿したとあります。

 その後、天正7年(1579)浅野長政は交通の要衝である熊川を諸役免除の地とし、熊川陣屋を設けて町奉行を置くなど宿場町発展の基礎を築きました。

 江戸期の元和5年(1619)諸役免除の地と定められて以後、小浜港に陸揚げされる北国からの物資を

 京、大坂へ送る街道筋の重要な宿場町として栄え最盛期は年間2万駄の通行がありました。



◎ 濃飯駅【玉置駅(遠敷郡上中町野木・玉置)

 遠敷郡上中町野木付近は古代官道の「濃飯駅」が置かれたところで、近江から北陸に入る道の1つとして

 琵琶湖の北部高島郡今津町から西へ進み、石田川を遡って水坂峠(海抜277m)を越え、北川に沿って若狭へ入る道筋が古くから利用されていました。

 この道筋に濃飯駅が置かれ、さらに西の若狭国府へ向かったといわれます。

 なお、濃飯駅設置以前の天平4年(732)頃は「玉置駅」があったようで、この付近は、古くから都と若狭を結ぶ官道が開かれていたようです。


若狭姫神社(小浜市遠敷)若狭彦神社(小浜市竜前)


◎ 遠敷(小浜市遠敷)

 北川支流の遠敷川流域に位置し、古くから「おにふ」の名で呼ばれ、若狭地方の文化の中心を形成していた地域です。

 集落の中央部に切れ落ちている湯谷山は、戦国期、守護武田氏の家臣内藤下総守の居城があった場所で、

 同山北麓には養老5年(721)創建と伝える若狭国一宮の若狭姫神社が鎮座しています。

 若狭姫神社前に広がる市場地区は、中世の市が立ったところで、付近の農民が商売や銭貨獲得のために出入し、

 近江へ通じる九里半街道の中継地の門前市として賑わいました。しかし、小浜津が町として発展していくにしたがい、次第に衰退しました。



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