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(3) 小浜市〜勢峠


小浜湾から後瀬山を望む小浜市と港を見渡す


◎ 小浜(小浜市)

 嶺南の中央、若狭地方の中心に位置した小浜は、北川の中、下流域と南川下流域の沖積地にあり、小浜湾岸のデルタ地帯に形成された平野に市街地ができました。

 小浜東部の府中に若狭国府、国分に国分寺跡がありますように、北川中、下流域は、古代以来、一貫して若狭国の中心でした。

 中世以降、繁栄の中心は湾岸に移り、湊町小浜が栄え、近世初めには、京極氏がデルタの低湿地に城下町を開き、酒井氏がこれを引き継いで整備拡充しました。

 その経済基盤になったのは、米作、菜種の二毛作を中心とした若狭第一の平野の生産力であり、また、北川の断層谷から琵琶湖北西岸へ通じる若狭街道(九里半街道)でした。



◎ 小浜湊(小浜市)

 小浜湾東岸に臨む中世以降の港で、天然の良港でした。北川の断層谷にある熊川宿(上中町熊川)を中継地とした若狭街道(九里半街道)を利用して琵琶湖に通じており、

 畿内と日本海側諸地方を結ぶ中継貿易で栄え、近世初めには敦賀湊と並ぶ日本海岸屈指の港でした。

 ただ、南北朝期以前は北の古津(小浜市甲ヶ崎付近)が湊であったと伝えられ、室町初期からの湊は、北川の北方にある西津荘に移ったようです。

 現在も残っている大湊、小湊は、その遺名でないかといわれます。

 西津荘には皇室料税所今富名もあり、若狭守護所も一時、同荘にあったようです。

 この頃から船の出入が目立つようになって、入津を管理する政所が問丸に置かれました。

 応永15年(1408)南蛮船が着岸して生象や孔雀などを日本国王に進物とし、同19年(1412)にも着岸して、問丸本阿弥を宿所としたとあります。

 江戸期、寛永年間(1624〜1643)頃から小浜湊は賑わしくなり、延宝9年(1681)には米、大豆24万3千俵が入津、

 その前年は四十物7万3千箇入津、船数は1,055艘前後、元禄期(1688〜1703)中頃まで、街道の馬は3,4百疋いて、そのうえ川舟もあったといいます。

 しかし、寛文12年(1672)河村瑞賢の西廻り航路が確立して中継交易の荷を奪われ、湊は衰退しますが、

 寛政年間(1788〜1800)から北海道の松前、蝦夷と大坂を結ぶ北前船によって湊の機能を維持しました。



小浜城天守閣跡小浜城石垣

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◎ 小浜城と城下町

 戦国期、若狭国守護武田氏が後瀬山に築城して本拠とし、麓に町が開かれたそうですが、その詳細は港とともに不明です。

 慶長5年(1600)関が原合戦の戦功で、若狭の領主になった京極高次は、北川と南川を天然の濠として、小浜の海を背にした難攻不落を誇る水城の築城を始めました。

 しかし、築城途中の寛永11年(1634)京極忠高は出雲へ移封となり、その後に酒井忠勝が武州川越(埼玉県川越市)から若狭11万3500石の藩主となりました。

 酒井氏は、京極氏の築城を引き継ぎ、天守閣の造立に着手、寛永19年(1642)40余年の歳月をかけて小浜城は完成しました。

 以来、酒井家14代、237年間の居城となり廃藩置県を迎えます。

 明治4年(1871)12月、大阪鎮台分営設置の改修中に本丸櫓から出火し、城櫓の大部分を焼失して、現在は本丸の石垣を残すのみとなりました。

 酒井氏は城郭とともに城下町の整備も行い、旧南川の河口を内港とし、下流の流路で東の武家屋敷区雲浜と西の町人集住区小浜の境界としました。

 内港の西岸には舟奉行所や豪商の倉屋敷が並び、上市場も開かれました。

 寛永17年(1640)の家数1,718軒、人口9,712人で、寛文年間(1661〜1672)は東組1,811軒、8,514人、西組2,295軒、人口1万1,094人と最も多くなりました。

 その後、貞享年間(1684〜1687)以後、町数52町、東、中、西の3組になりますが、人口は増加しませんでした。 

 明治以降は海陸交通幹線からはずれ、港も狭隘なため漁港としてわずかに命脈を保つことになりました。



小浜市飛鳥の町並み小浜市飛鳥の町並み


 丹後街道は小浜の城下町を通っており、街道を往還する者は伏原から大宮を通り、神田の三叉路を左折して、

 八幡神社前で右折し、吹安の十字路を左折して、鹿島丹波屋で左折、浅間を西進して大原から青井口へと抜ける道筋でした。

 江戸期、丹後街道から町内へ入る三つの口には、小浜藩の番所が設けられ、番人が鉄砲と女性の出入国を監視しました。

 町人や商人は、この番所で「往来手形」や「鑑札」を役人に見せて往来しました。

 小浜市西方(西組)、八幡神社以西の丹後街道沿いの町並みには、今も江戸、明治期の町屋や蔵が立ち並び往時繁栄の名残りが見られます。

 この後、丹後街道は青井をほぼ東西に通り、谷田部へ通じる道と分岐して勢峠を越えました。

 東勢からは袖崎を迂回して、荒木、下加戸、上加戸を経て鯉川に出ましたが、今は勢浜トンネル、

 加戸トンネルでほぼ直線で結ばれており、紆余曲折した昔の面影はすっかり消えてしまいました。



◎ 勢峠(小浜市)

 勢坂ともいい、小浜市青井と同市東勢の境にある標高約110mの峠で、江戸期まで遠敷郡と大飯郡との境界になっていました。

 また、古来から小浜防衛の軍事的拠点で、南北朝期には戦場となりました。

 また、大永2年(1522)若狭守護、武田元光が後瀬山城を築いた時、木戸を構え兵を常駐させたといいます。

 現在は、国道27号とJR小浜線の勢浜トンネルが、この峠下を併走しています。



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