このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

今年の旅日記

清洲城〜信長公銅像〜
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東海道本線で名古屋から岐阜に向かうと、右側に清洲城が見える。

快速が清洲駅に停まらないので、なかなか立寄れなかった。

今日は時間があるので、行ってみることにした。

右大臣織田信長古城跡


弘化年間(1844〜1847)頃、清洲の文化人武田晨業が建立したそうだ。

■ 清洲城の概要

 清洲城の始まりは、足利政権の尾張守護であった斯波義重が守護所下津城(現稲沢市)の別郭として鎌倉街道と伊勢街道が合流する要衝の清洲に築城されたと伝えられています。その後、文明8年(1476年)に守護所下津城が戦乱で消失して以降、守護所は清洲城に移ったとされています。

 この時期には尾張国は守護代の織田氏が力を持つようになり、岩倉の織田氏が尾張の上四郡を、清洲の織田氏が下四郡を分割支配しました。清洲織田家当主信友が守護斯波義統を殺害したのをきっかけに、弘治元年(1555年)、那古屋城にあった 織田信長 は、清洲城を攻め信友を討ち、清洲城に入城し、尾張支配の本拠地とします。永禄3年(1560年)に 桶狭間 の戦いに勝利するなど信長は近隣の大名を次々に倒し、着々と天下統一へ歩みを進めますが、天正10年(1582年)本能寺の変により雄図半ばで、その夢は断たれます。

 信長没後、天正10年(1582年)の清洲会議の後は信長の次男信雄が尾張、伊勢、伊賀の領主となります。当初は伊勢長島に居城を構えていましたが、天正地震、木曽川洪水等を契機に本拠を清洲城に移します。この頃、清洲城は大改修が行われたと推測され、天守、居館始め門塀、三重の堀等を築き、城郭の規模も東西1.6km南北2.8kmもあったといわれています。

 信雄以降、豊臣秀次・福島正則・松平忠吉・徳川義直という錚々たる武将が清洲城主となりましたが、慶長15年(1610年)、徳川家康は清洲廃都、 名古屋 遷都を指令し、3年後には「清洲越し」が完了し、当時の歌として「思いがけない名古屋ができて、花の清洲は野となろう。」が残っています。清洲越しにより清洲城は廃城となり、石垣、橋、武家屋敷などの古材は名古屋城築城に利用され、名古屋城の西北隅櫓(清洲櫓)は清洲城を移築したとも伝えられています。

■ 再建清洲城

 平成元年(1989)年「美しい歴史のまちづくり」をめざした清洲町の町制百周年記念事業として、16世紀の戦国の世の郷土の英雄、織田信長公の居城として、かつて「東海の巨鎮」、「天下の名城」と称えられた清洲城を再建しました。

 この清洲城は、日本古来の城郭様式を随所に取り入れ再建されました。城郭の周囲には古い様式の石積みや漆喰塀、大手門の両側には信長塀、大小の自然石を野面積みで構築した石垣、更に本瓦葺三層四階望楼付の天守閣がそびえます。

武田柯笛の句碑


なかぬにもかきらす午時のほととぎす

明治23年(1890年)、建立。

明治24年(1891年)10月、濃尾大地震。

犬山城 天守閣は半壊。

「大地震記念碑」


明治25年(1892年)、建立。

五條川を渡って、清洲城へ。


天守閣


線路の下をくぐって清洲公園へ。

清洲公園の概要

 この公園は、「清洲村古城地図」(旧尾張藩文庫・名古屋市蓬左文庫蔵)により、清洲城本丸・天守台の地域(東西40間半・南北101間半)を包含する約5千坪(16,500平方米) を保存し、織田信長公顕彰を目的として、大正11年開園されたものである。

 清洲城の沿革は、公園北端(東海道本線北側) 天守台址に掲示してあるが、慶長14年(1609年)徳川家康が尾張藩都を清洲から名古屋に遷すことをきめ、名古屋城郭と城下町の造成工事に着手し、同15年より18年迄の間に名古屋城の竣工と、清洲城下の町々・家々の新築移転がほぼ完了(清洲越し)清洲城は取り壊された。

 尾張の中心都市であった清洲は、文明10年(1478年) 以来130年に亘る華やかな歴史の幕をひいて名古屋に生まれ変わったのである。

 当時の臼引歌が残っている。

   「思いがけない名古屋ができて 花の清洲は野となろう」

 やがて清洲の旧市街地は逐次清洲新田として開発され、清洲城天守台址約233坪(770平方米)の地のみは、尾張藩が清洲城址として保存し、明治以来宮内省付属地とされ、現在は県有地となっている。

 明治19年4月には当公園地内を貫いて東海道本線が敷設された。

 大正7年(1918年) 織田信長公への贈位を記念して、清洲公園建設が清洲町により計画され、設計を林学博士本多静六・田村剛両氏に依頼し、用地 5,634坪(18,592平方米)を買収、大正9年県費補助事業として着工、同10年工事完了、同11年開園した。公園樹木は町内有志の寄付によるもの、公園建設費は 48,619円であった。

 園内には織田家の木瓜紋を型どった信長池もあり、開園以来西春日井郡随一の公園として、歴史を探訪し、風景を賞する散策の客が多く、公園の内外周辺では、春の摘み草、五條川の舟遊び、魚釣り、夏のほたる狩り、川花火、秋の古城の月見、冬の雪見など風流の余情つきぬものがあった。

 昭和11年には、故竹田鋹太郎氏の寄贈により、26才桶狭間出陣の雄姿を模した信長公銅像(作者 杉浦藤太郎 考証 関保之助)が園内に建てられ、清洲のシンボルとなった。

 その後、清洲公園の姿は、昭和38年の東海道新幹線の建設用地にかかったり、昭和47年に始まった清洲西部土地区画整理事業で公園西側が拡張となったり、昭和62年には五條川の改修により土地が買収されたりして大きく変化し、現在は14,343平方米となっている。

 平成9・10年の2カ年の整備事業により、当初の清洲公園の姿を生かしつつ、新しい清洲公園に生まれ変わった。

織田信長像


濃姫の像


平成4年(1992年)10月、齋藤二郎制作。

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