このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

与謝野晶子の歌碑


〜串橋〜

 昭和8年(1933年)11月9日、 与謝野寛・晶子 夫妻は御幸村の麦谷亜星を見舞い、 那谷寺 へ。

石川県道145号串加賀線を行くと、小松市串町の串川に串橋が架かる。

串川


串橋の南側に与謝野晶子の歌碑があった。


串の橋二つの潟をつなげども此処に相見て我等は別る

「いぬあじさゐ」収録の歌。

平成4年(1992年)7月、十年会二十周年記念に建立。

碑 文

 串川は、柴山潟から今江潟へ流れる内川で全長1,458米、巾約39米、平均水深約3米であった。

 海運盛んな明治初期までは、安宅港と大聖寺藩を結ぶ重要な航路で人や米、肥料等を積む帆かけ船が上り下りしていた。又、河道で他村や水田を舟で往来する農耕、生活の水路でもあった。更に淡水のこい、ふな、ぼら、うなぎ、しじみも豊かで川、潟漁は、農業と共に串村の生活を支えた。

 北陸街道と木曽街道を結ぶこの「渡し」には水、陸路の番所が置かれる。その後橋が架けられ藩政末の「江沼志稿」に「串大橋、板橋長サ二四間、巾三尺五寸串領に在」と記されている。何回か架替られ、昭和9年コンクリート橋となり長さ39.3米、巾4.5米となる。昭和60年三湖干拓事業により現況となる。

当時の大橋附近は雄大な清流で四ツ手網の好漁場で、橋の上からぼら等の通過を見て「それそれ」と声をかけ網をあげる。これが転化して「そりそり橋」として知られるようになる。夏の風物詩でもあった。

 与謝野晶子、寛が主宰する短歌「明星派」の同人であり親友であった村松町の名医師麦谷良作(号を亜星)を尋ねて詠まれた歌に代表される詩情あふれる串川や大橋の詩歌は多い。

 往時の串川を偲び後世に伝へたく記念碑を建立する。

北陸本線粟津駅


三川駅 へ。

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