このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
与謝野晶子・鉄幹の歌碑
〜多賀湾〜
熱海市立多賀中学校に与謝野晶子 の歌碑があるというので、行ってみた。
中学校とはいっても、広い。
あちこち探すと、与謝野晶子の歌碑は正門の前にあった。
ここに見る多賀の海原ひろければこころ直ちに大空に入る
寛
棚造り臙脂のいろの網をかく多賀の磯より中野濱まで
晶子
昭和9年6月、与謝野寛(鉄幹)晶子夫妻は、伊豆への吟行の折、多賀村役場に立ち寄り歓談し、知人植竹氏の別荘で休憩、数種の歌を詠まれました。いずれも多賀の景観に自己の心情を託した秀歌であります。
特に晶子は多賀の自然と人々の素朴な人情をこよなく愛し、夫鉄幹の没後も数回にわたり来遊し、人々の生活と風物を巧みにとらえた歌数十首をのこしております。
昭和9年(1934年)6月6日、与謝野寛(鉄幹)晶子夫妻は伊東の「抛書山荘」へ。7日、
一碧湖
に舟を浮かべる。8日、多賀村を訪れ、箱根湯本温泉へ。
昭和10年(1935年)3月26日、鉄幹は肺炎で亡くなる。
昭和12年(1937年)12月9日、晶子は多賀に吟行。
我が踏めば鳴る石の道つづけどもさびしき伊豆の多賀の冬かな
ことそぎし伊豆の東の多賀の温泉
(いでゆ)
にわがある師走
『白桜集』
(多賀の湯)
昭和13年(1938年)2月12日、晶子は
十国峠
から多賀村を訪れ、網代温泉「佐賀屋」に泊まる。
峠路の六里のあひだ青海を見て枯草の世界をつたふ
山下り多賀の佐野屋に坐してあり潮近く鳴り梅花こぼるる
『白桜集』(綴る雪)
昭和59年(1984年)3月、多賀湾を一望するこの景勝の地に多賀中学校が移転新築されたことを記念して歌碑が建立されたそうだ。
下多賀園地
にも与謝野晶子の歌碑がある。
多賀湾を一望。
昭和3年(1928年)3月7日、
若山牧水
は
鈴木浚一
に送られて
熱海
から
錦ヶ浦
を過ぎて多賀までやってきた。
昼飯でも食べて別れようと思うのだが、当時の多賀村は一本すじの淋しい漁師町、茶屋らしい店も見当らない。門に立って居た漁師の細君らしい中年の婦人に無理を言って、酒と御飯さえあればと上げてもらう。鰯のなますで、買って来てもらった酒を飲む。
「或る旅の思い出 鈴木浚一」
与謝野晶子の歌碑
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