このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
石田波郷の句碑
立春の米こぼれをり葛西橋
行船公園
に石田波郷の句碑がある。
立春の米こぼれをり葛西橋
早春や道の左右に潮満ちて
『雨覆』収録の句。
石田波郷の句によせて
葛西橋
の名が敗戦直後の文壇に明るい光芒をもたらしたのは、波郷の「立春の米」の句によってであった。当時の橋は現在より約300メートル上流に田中源氏により架けられた。昭和21年、埼玉から東京に戻った波郷は、対岸の焦土の望まれるこの橋のたもとに寄寓している。立春の陽に輝く米粒は、明るい未来への予兆、潮の香りは春の生産へ向かう活気であった。
平成15年8月11日建之
東京臨海ロータリークラブ
昭和18年(1943年)9月末、石田波郷は
千葉佐倉連隊に入隊
。10月初め、華北に渡り山東省臨邑に駐留。
昭和20年(1945年)1月22日、博多に帰還。
内地上陸
よろめくや白衣に浴ぶる冬日さし
その足ですぐ別府に運ばれ、検疫をませて命令を待ち愈々東京に移されることとなった。
石田波郷『清瀬村』
3月9日、妻安嬉子修大
(のぶお)
を伴い埼玉県北埼玉郡樋遺川村(現・加須市)に疎開。20日、石田波郷は妻の疎開先に帰る。
栗食むや若く悲しき背を曲げて
田家の背戸に法師蝉の声死に、今は栗が笑ひこぼれるやうになつた。疎開先の暗い室内で病み疲れた細い背を打曲げて哀しい心で栗を剥くのは、尚包蔵する沸々たるものを内に容し、齢四十にも程遠い、若い作者の姿であつた。
石田波郷
『波郷句自解』
昭和21年(1946年)1月、妻子を伴って上京、葛西の吉田勲司宅に仮寓。
坂なして橋光りたり降り出す雪
昭和21年出京、取敢ず葛西の吉田勲司居の2階に落着いた。橋は荒川放水路中川にかゝる葛西橋である。
細雪妻に言葉を待たれをり
同前東京に出て来たものゝ家なく、職はなく健康はすぐれない。音もなく降る細雪を眺めつゝ傍の妻に何か言ひかけるが、言葉がつゞかない。今後はとにかく俳句でと思ひ「現代俳句」を企劃してゐた。
石田波郷『波郷句自解』
3月10日、
江東区北砂町
1−805に転居。
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