このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
芭蕉の句碑
行春をわかの浦にて追付たり
名勝
和歌の浦
に三断橋がある。
三断橋
和歌山県内最古の石橋で、紀州藩初代藩主徳川頼宣が妹背山を整備した慶安4年(1651年)頃までに建設された。
三断橋の前に芭蕉の句碑があった。
行春をわかの浦にて追付たり
出典は
『笈の小文』
。
天保4年(1833年)4月、今井櫟亭建立。麥蛾書。
旅館「あしべ屋」本館の跡である。
大正13年(1924年)8月、
荻原井泉水
は和歌の浦で芭蕉の句碑を見ている。
句碑というのは、妹背山に渡る断橋の前、あしべやという旅館の側にある——
行春にわかの浦にて追付いたり はせを
碑陰には、
山蒼水泱 山蒼く水泱く
天和地淳 天和に地淳にして
鐘成神秀 神秀を鐘成す
四海絶倫 四海絶倫たり
長留日月 長く日月を留め
春去猶春 春去りて猶春のごとし
祖翁瓊藻 祖翁の瓊藻
千載□々 千載□々たり
天保四歳次癸巳四月穀日
紀城隱士今井櫟亭麥蛾謹誌
碑側には
「畠山尾張守城址石出自日方浦永正寺」として、讃辞と石の出所とを誌してある。
『随筆芭蕉』
(和歌の浦)
昭和18年(1943年)5月12日、
高浜虚子
は和歌の浦望海楼へ。
いかなごにまづ箸おろし母恋し
五月十二日 紀州和歌浦、望海楼。春泥招宴。
『六百句』
山口誓子は芭蕉の句碑を見ている。
訪ねる旅館新あしべは、三断橋の前にあった。その橋は小島に架した橋だ。和歌山市電の和歌山停留所に近い。
旅館の前庭に立っているその句碑は大きな自然石で、彫りも深い。
行春をわかの浦にて追付たり
「わかの浦耳て追付堂り」と書かれている。棕梠の木が立っている。句碑にこの木はつきものなのか。粉河寺の句碑にもこの木が立っていた。前庭と云っても、すぐ旅館の窓が見える。然も道傍である。
芭蕉は紀の川沿いの道を西へ西へと歩いて来た。晩春であったが、そんな感じはしなかった。和歌浦に来て見ると、海の景はまさに晩春であった。芭蕉はここへ来てやっと、春の行く思いにひたることが出来た。芭蕉はそれを「わかの浦にて追付たり」と表現した。行く春を追い駆け、追い駆けして、終に和歌浦で取り押さえたのだ。
「追付たり」なら「行春に」とあるべきだ。「芳野紀行」はそうなっているが、「本朝文鑑」に載っている「庚午紀行」には「行春を」となっている。
句碑はこれに拠ったのだ。
『句碑をたずねて』
(紀州路)
芭蕉の句碑
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