このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

芭蕉の句碑


頓てしぬ氣しきは見えす蝉の声

 深谷市江原の 摩利支天堂 から県道45号本庄妻沼線を行くと、深谷市中瀬の利根川沿いに吉祥院という寺がある。


長勢山吉祥院


天台宗 の寺である。

本堂の前に芭蕉の句碑があった。


頓てしぬ氣しきは見えす蝉の声

元禄3年(1690年)夏、芭蕉が幻住庵で秋之坊に示した句だそうだ。

「秋之坊」は、金沢の門人。

天保12年(1841年)5月、百五十回忌に斎藤南々句碑建立。 田川鳳朗 筆。

  『諸国翁墳記』 に「蝉 塚 武藏国榛沢郡中瀬村吉祥院境内 齋藤南々建之」とある。

記念句集 『蝉塚集』 が板行されている。鳳朗序、逸淵 跋。

 武藏の國榛澤中瀬の里斎藤南々深く此の道のみやひさを好み嘗て蕉翁の句碑を營み、恩報に供せん事を欲りして年ありとかや、今此の翁百あまり五十の遠忌を期に此里天台道場長勢山吉祥寺の境内に地を卜し碑面に高韻をあらはし、裏にいさゝか事を記して、萬代の苔の花に傳へんとなり、云々

 天保十二年仲夏 鳳朗八十歳

斎藤南々は深谷市中瀬に生まれる。 久米逸淵 の高弟。

安政4年(1857年)9月22日、病没。享年56。吉祥院に墓がある。

 句碑は以前は街道に面して建てられていたが、平成7年(1995年)阪神大震災の後で境内に移されたそうだ。

吉祥院の北は利根川。

中瀬河岸場跡

 中瀬河岸は江戸時代から明治初年にかけて利根川筋の河岸場として大いに繁栄した。

 慶長12年(1607年)に江戸城修築の栗石を中瀬から運んだ記録があり、この頃には既に中瀬からの水運が行われていたようである。その後、中瀬は周辺の物資の集積所となり、上流や下流から来た乗客や荷物を積み換えるように定められ、関所のような役割も果たしたという。最盛期には大小100隻近くの舟が出入りし、問屋・旅籠屋などが軒を連ねて賑わった。

 明治16年(1883年)の高崎線(現JR)の開通により次第に衰退し、明治43年の大洪水とその後の河川改修で河岸場の姿は失われた。

深谷上杉顕彰会(第24号)

 寛政3年(1791年)3月26日、小林一茶は江戸を発ち出郷してから初めて柏原に帰る。4月12日、 熊谷 から中瀬のわたりを越え、 境町 へ。

 熊谷を北に入て、東方村より中瀬のわたりを越へ(え)、境町の雪車といふ人を訪ふに、京へ行ぬとあれば、いせ崎の渡りをこす。日は薄々暮て、雨はしとしと降る。

     時鳥我身ばかりに降雨か

 此辺にては、今降もしぐれといふ。

     人に見し時雨をけふはあひにけり


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