このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
芭蕉の句碑
松杉をほめてや風の薫る音
呉市川尻町久筋の路上に「薫風塚」がある。
横を向いているが、こちらが正面であろう。
右側面に芭蕉の句が刻まれているが、よく読めない。
松杉をほめてや風の薫る音
芭蕉
出典は
『笈日記』
(京 都
附嵯峨
)。
『蕉翁句集』
は「元禄七戌ノとし」とする。
「
小倉山常寂寺ニて
」と前書きがある。
元禄7年(1694年)夏、京都嵯峨の
落柿舎
滞在中の作とされる。
寛政11年(1799年)6月、金竟・東舛によって建立。
川尻町指定史跡
薫風塚 一基
薫風塚の句は翁が嵯峨小倉山常寂寺で吟んだ句を刻んだもので翁の死後百余年後に当たり百年忌を記念追想してこの地蔵堂の境内に建立された。
○金竟は神官梶山相模守政盈で俳号を清陽館金竟と号し川尻俳諧の始祖である。芭蕉の正継者五舛庵蝶夢の選編による寛政五年刊「新類題発句集」に金竟の句が選載されている。寛政六年刊安芸十二庵「春のはつ風」、寛政十一年刊「十二庵東吹翁追悼の吟」に金竟、東舛の句がみえ、両者ともに東吹の影響を大きく受けている。また御手洗の神官篷壷と親交があり御手洗の俳人や文人たちとの交流も深かった模様である。
(文化8年1月15日没 75才)
○東舛は白石屋幸四郎信義で若年時代俳号を薫風亭東舛と称していたが、のち呉竹庵雨洗と名付けた。雨洗追悼句集として文政5年10月、飯田篤老序、梧由編による「時雨草」がある。又父市幸舎淨阿、母妙阿の追悼句集が残っている。又寺家の野坂完山は雨洗について俳諧を始め俳号「鶴亭柴離」の名付け親でもあり、鶴亭日記の中にも雨洗の句を多く見ることができる。浦辺筋、黒瀬郷をはじめ広域にわたりその影響を与え川尻俳諧の全盛期をきづいた。
(文化12年10月2日没 55才)
川尻町教育委員会
『諸国翁墳記』
に「
薫風塚 同州川尻一葉松下建之 金竟・東舛 松杉を誉てや風のかをる音
」とある。
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