このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

芭蕉の句碑


梅か香にのつと日の出る山路かな

ときがわ町西平に武藤家がある。


紫陽花が咲いていた。


多武峯の文化財

 武藤家のあるこの地域を多武峯といいます。これは、慶雲3年(706年)に大和国磯城郡多武峯(奈良県桜井談山神社)から藤原鎌足の遺髪を移し、祭神として祀った多武峯大権現が始まりとされています。その後、この地に聖観音を本尊とする福聚寺観音堂が建立されたといいます。また、観音堂領として慶安2年(1649年)徳川家光より5石の朱印状が下されています。

 この観音堂を管理していたのが武藤家(当時、藤原姓)であり、江戸時代には慈眼坊と名乗る修験道場でした。慈眼坊は、京都聖護院を本山とする天台系修験の本山派に属し、関東地方の本山派修験の大先達であった入間郡越生郷、山本坊の配下として、外秩父地方の副先達を務めていたといわれています。さらに元禄6年(1693年)には、聖護院門跡から常陸国筑波郡(茨城県)の内50箇村の年行事職を認められています。

 武藤家の母屋は17世紀に建設され、護摩堂を配するなど往時の修験道場の家屋形態をよく保存しています。

 明治2年(1869年)の布告により修験は廃止されます。神仏分離により観音堂は多武峯神社に改称、慈眼坊は姓を武藤に改め神職となりました。

 このような経緯の中で武藤家は、多武峯の始まりを示唆する瓦塔片をはじめ修験道に関係する数多くの貴重な文化財を所蔵しています。また、多武峯には、天狗や竜宮の穴などの伝説も伝わっています。

 平成15年3月

都幾川村教育委員会

2006年2月1日、都幾川村は玉川村と合併し、ときがわ町となった。

武藤家の前の坂を下る。

多武峯の眺望


高台に芭蕉の句碑があった。


梅か香にのつと日の出る山路かな

元禄7年(1694年)春、芭蕉51歳の句。

『炭俵』 冒頭、志太野坡と両吟歌仙の発句。

文化9年(1809年)、 鈴木荘丹 建立。

小川町上古寺の修験梅松院より移転した。

  『諸国翁墳記』 に「梅香塚 武州比企郡古寺梅林山梅松院 天満官廣前 梅松院建之」とある。

靫草が咲いていた。


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