このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
芭蕉の句碑
風かほるはをりはゑりもつくろはす
安城市和泉町宮前に弥厚公園がある。
弥厚公園に都築弥厚の像がある。
贈従五位築弥厚翁像
弥厚は、富農の家に生まれ、根崎陣屋の代官をつとめるなど、地方の名望家でした。当時の安城市域の多くは水に乏しく、水田開発が困難でした。そこで、弥厚は矢作川の上流から水を引く用水計画をたてましが、農民や領主らの反対にあい、計画を実現できぬまま亡くなりました。弥厚の計画は、明治13年(1880年)に明治用水の完成となって、ようやく実を結びました。
都築弥厚像の左手に芭蕉の句碑があった。
謁丈山像
風かほるはをりはゑりもつくろはす
出典は
『芭蕉庵小文庫』
(史邦編)。
『蕉翁句集』
(土芳編)に「元禄四未とし」とある。
『芭蕉句選』
(華雀編)は「
はをりや襟も
」とする。
文化7年(1804年)頃、和楽建立。
風化が進み、よく読めない。
句碑の右手後ろに「句碑の由来」碑があった。
この句碑は、京都
詩仙堂
で芭蕉が石山丈山の肖像を見て詠んだものに、丈山を敬慕する都築弥厚翁が感銘を受け、和泉の邸内に文化年代の初め(西暦1804年)頃に建てたものである。その後、本龍寺境内、明治第一尋常小学校の校庭と移され、大正8年、弥厚翁銅像建立を機にこの地に移された。およそ200年の時を経て風化が進み判読困難となったので、ここに弥厚翁の遺徳を偲び由来碑をたてる。尚「和楽」は弥厚翁の俳号である。
和泉町内会
丈山苑
へ。
芭蕉の句碑
に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください