このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2015年
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詩仙堂
〜野風呂の句碑〜
白川通りの「一乗寺下り松町」下車、
詩仙堂
(HP)に向う。
途中、四つ辻の角に
一乗寺下り松
がある。
詩仙堂山門
詩仙堂
正しくは、六六山詩仙堂丈山寺と号する
曹洞宗
の寺院である。
もとは、江戸時代の文人・石川丈山が、寛永18年(1641年)に穏棲のために建立した山荘「凹凸窩」(でこぼこした土地に建てた住居の意味)で、昭和41年(1966年)に寺に改められた。
詩仙堂の名は、狩野探幽らの筆による36人の中国の詩人の肖像と、丈山自らが書いた各詩人の詩が四方の壁に掲げられた「詩仙の間」に由来する。
丈山は、三河国(現在の愛知県)
安城
に生まれ、徳川家康に仕えていたが、禄を辞して京都に住み、詩作に励むとともに林羅山ら一流の文化人と交わり、茶道においては煎茶の奥義を極めた。晩年はこの地で悠々自適の生活を行い、寛文12年(1672年)に90歳で天寿を全うした。
回遊式の庭園は白砂と皐月の刈り込みが美しく、藤、花菖蒲、杜若、紫陽花、萩、山茶花など、四季それぞれに美しい姿が楽しめる。東には滝が配置され、鹿や猪が庭園を荒らすのを防ぐため、また一説には山荘の静寂を慰めるために丈山が考案したといわれる僧都(添水、鹿おどし)の音が、静かな庭園に風情を添えている。
毎年5月23日には、丈山忌が営まれる。
京都市
詩仙堂の山躑躅
寛文2年(1662年)、狩野探幽は丈山の画像を描く。
元禄4年(1691年)6月、芭蕉は詩仙堂を訪ねているようだ。
丈山之像謁
風かほ
(を)
る羽織は襟もつくろはず
芭蕉
『芭蕉庵小文庫』
白砂と皐月の庭園
皐月にはまだ早かった。
蝶夢
も詩仙堂を訪れている。
一乘寺の詩仙堂
醉さめや李白か顔の寒けなる
『草根發句集』
庭から見た詩仙堂
内部は撮影禁止。
明治38年(1905年)9月20日、
長塚節
は詩仙堂を訪れている。
詩仙堂
落葉せるさくらがもとにい添ひたつ木槿の花の白き秋雨
唐鶸
(からひは)
の雨をさびしみ鳴く庭に十もとに足らぬ黍垂れにけり
昭和4年(1929年)8月12日、
与謝野晶子
は詩仙堂を訪れている。
庭の斜面に鈴鹿野風呂の句碑があった。
さにづらふ紅葉の雨の詩仙堂
昭和35年(1960年)5月22日、建立。
野風呂は京都生まれの俳人。本名・登。
高濱虚子
に師事、『ホトトギス』同人。1920年、『京鹿子』創刊。のちに『京鹿子』主宰。
昭和46年(1971年)4月5日、83歳で没。
昭和37年(1962年)、
中村草田男
は詩仙堂を訪れている。
詩仙堂を訪ふ。三句。
白砂を治め山茶花落花のみ掃くらん
吐月峰鳴らす者なく丸火鉢
石川丈山、虎溪三笑ならずとも、老齢独居を飽くまでも守り
て、京洛の地へみだりに出でずと自戒せる和歌一首あり、そ
が解説書壁面に懸る。「渡らじなせみの小川の浅くとも老の
波添ふ影のはづかし」と但馬氏は読み判じたり。あるひは、
その方正しからんも、吾は最後の七音を「彰はづかし」と自
意にまかせて読みとりたるなり。
恥かしとは若さの彰
(あかし)
冬添水
(そふづ)
日下部寿保の句碑もあった。
柿のこす枝に夕日の詩仙堂
私は知らない。
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