このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

新年の旅日記

出合橋〜子規と秋桜子の句碑〜
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松山市余戸南の出合橋北交差点に「出合荘」がある。


左手に 正岡子規の句碑 があった。


若鮎の二手になりて上りけり

愛媛県で最初に建てられた子規の句碑である。

 東京で遊学中の子規が、松山の名所十二か月を句作。重信川と石手川の合流する「出合の渡」付近の早春の頃をなつかしく思い起こしながらその景を詠んだもの。

 明治25年6月17日、当時松山にいた河東碧梧桐にあてた手紙に「出合」と題して、「若鮎の二手になりて流れけり」として送られたが、のち 『寒山落木』 に若鮎の生態から「上りけり」と推敲した。昭和8年9月村上霽月書により建立。

松山市教育委員会

俳句の里

基壇後部の副碑

由 来

此處出合は重信川と石手川の合流点で明治四十年旧々出合橋(木橋)が架るまでは渡舟で往來した。此の碑は正岡子規が伊予郡永田村の武市幡松を訪ねるに際し渡舟の中で詠んだ句である。子規を識る森河北が近隣の俳人有志とと相計り昭和八年出合橋北詰に東面して之を建立した。村上霽月翁の筆になる。次に昭和十三年旧出合橋架け替え竣工により橋詰東側に北面して移設した。続いて昭和五十二年出合大橋完成に依り河川敷内となる為、余戸有志協議の上此處に移したものである。

   昭和五十四年八月

 
余戸世話人一同

余戸にある 「手引松」の句碑 ともに、愛媛県にある子規の句碑第1号といわれる。

右手に水原秋桜子句碑があった。


樗咲けり古郷波郷の邑かすむ

愛媛県唯一の 秋桜子の句碑 である。

 昭和27年(1952年)5月、「馬酔木」主宰の 水原秋桜子 が当地来遊、 松山城 から馬酔木同人五十崎古郷(明治29年—昭和10年、松山市余戸中2丁目)と 石田波郷 (大正2年—昭和44年、松山市西垣生)の生地を展望しての吟。「樗」は、せんだんの木。

 昭和63年5月29日、松山馬酔木会(代表川口淀村)が馬酔木主宰の水原春郎を招き建立。古郷の長男朗氏と波郷の長兄和弘氏の二人が除幕。石は釣島産油石。

松山市教育委員会

俳句の里

左側の副碑

由 来

 馬酔木派俳句の主宰水原秋桜子先生が昭和二十七年五月御来松の砌、松山城から馬酔木派同人五十崎古郷及び石田波郷の生地を展望されて詠まれた俳句である。

昭和戊辰六十三年五月建之

出合橋から重信川を望む


伊予鉄道郡中線鎌田駅




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