このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

今年の旅日記

「汽船乗り場」〜子規の句碑〜
indexにもどる

「三津の渡し」 から汽船乗り場へ。

「汽船乗り場」の標柱があった。


 この「汽船乗り場」の標柱は、明治4年(1871年)頃、「はしけ」で沖の汽船までのまでの運送を始めた久保田廻漕店が設置したもので、もともとは浜辺に臨む今の三津3丁目4付近に建てられていた。

 三津浜港は、鎌倉時代から伊予水軍の拠点であったが、慶長8年(1603年)、松山城に移った加藤嘉明が水軍の拠点とし、また寛永年間には、松山藩松平初代藩主定行が、御船手組や町奉行所を置き、参勤交代の御用船の本拠としてから、物や魚の集散する松山藩の外港となった。

 明治になると、三津浜町は商工業も発展して大阪商船や宇和島運輸等の汽船の出入りする四国一の商取引所になった。しかし、港は海底が浅いため、大きな汽船は沖合に停泊していた。船着場から沖の汽船まで「はしけ」(和船)に乗せて旅客を運んでいた。

  夏目漱石正岡子規 も、ここから出発し、ここに上陸したのである。

 その後、埋立等による三津浜港の改修が進み市街化されるに伴い、三津浜港の現在地に移設された。

松山市教育委員会

子規の句碑 があった。


十一人一人になりて秋の暮

『寒山落木 巻四』 (明治二十八年 秋)に収録の句。

平成14年(2002年)、建立。

 子規は明治28年4月、新聞「日本」の記者として日清戦争に従軍したが、休戦講和のため5月帰航、船中にて発病し重体になり生死をさまようが、神戸病院須磨保養所にて療養、回復し同年8月25日帰松。漱石の下宿先 「愚陀佛庵」 にて予後を養うこと52日間。この間松風会会員の指導を任じていた。同年10月12日二番町の「花廼舎」において漱石ら松風会会員17名によって送別会が開かれた。

 酒宴の名で句の贈答が行われ、漱石は「御立ちやるか御立ちやれ新酒菊の花」を贈り、子規も惜別の句「十一人一人になりて秋の暮」を作り応えた。又、子規はこの場で参加者全員の雅号を詠みこんだ即興俳句も披露し皆を驚かせた。同日宴後、子規は三津浜に向い「久保田回漕店」に宿泊、18日松風会会員10人が再び訪れ別盃をくみかわし送別の句を交換。漱石は「疾く帰れ母一人ます菊の庵」を詠み、一同が引き上げた後、子規は「せわしなや桔梗に来り菊に去る」と、その寂寥感を詠み松山最後の句となった。その後子規は宇治、須磨、大阪、奈良を巡って上京。その間 法隆寺 では有名な「柿食えば・・」の句を残した。10月31日新橋停車場にて虚子、 碧梧桐鳴雪 の出迎えをうけ根岸の 子規庵 に帰る。

 この7年後、明治35年9月19日永眠す。

   贈 松山北ライオンズクラブ結成二十周年記念

中島汽船「なかじま」


この先にターナー島がある。

今年の旅日記 に戻る



このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください