このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

今年の旅日記

子規記念博物館〜愚陀佛庵〜
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松山市道後公園に 子規記念博物館 (HP)がある。

子規記念博物館の前に子規の歌碑 があった。


足なへの病いゆとふ伊豫の湯に

   飛びても行かな鷺にあらませば

 子規の自選歌集『竹乃里歌』の明治31年「故郷を憶ふ」9首の中の1つ(内1首抹消)。明治28年秋以来カリエスのため左腰骨が痛みだし、以後没年までの8年間ほとんど病床の人となり、この望郷の歌を詠んだ。

 昭和26年9月19日子規50年祭に初めて作られた歌碑2基のうちの一つ。当時子規自筆の歌稿が見つからず、句稿の中から一字ずつ集めて刻んだ。

松山市教育委員会

『俳句の里 松山』

子規と漱石の句碑もあった。


ふゆ枯や鏡にうつる雲の影
   子規

半鐘と並んで高き冬木哉
   漱石

ふゆ枯や鏡にうつる雲の影

 明治28年冬の句。子規句集 『寒山落木』 及び『病余漫吟』に見える。明治28年秋、愚陀佛庵で子規が森円月に書き与えたもの。子規「雲百句」の一つ。

半鐘と並んで高き冬木哉

 明治29年1月3日午後、 子規庵内藤鳴雪森鴎外 、五百木飄亭、 夏目漱石高浜虚子 、河東可全、 河東碧梧桐 と子規の8人が会しての初句会での句。

 国際ロータリークラブ第267地区年次大会を記念して建立。

松山市教育委員会

『俳句の里 松山』

子規像


愚陀佛庵


 明治28年(1895年)、 夏目漱石松山中学校 英語科教師として赴任し 6月下旬松山市二番町上野義方邸内の二階建の離れに移った。この建物は戦災で焼失したが、その一階の部分が子規記念博物館常設展示室3階に復元された。

   漱石寓居の一間を借りて

桔梗活けてしばらく假の書斎哉


 昭和35年(1960年)11月29日、山口誓子は愚陀仏庵址を見に行った。

 私は、愚陀仏庵址を見に行った。漱石が寄寓していた二番町の、旧上野家だ。焼けて再建され、天平という天婦羅屋になっている。

 漱石がそう名づけた愚陀仏庵は上野家の離れで、漱石は下の座敷にいたが、子規が、日清戦争で身体を壊して帰り、この家に、舞い込んで来たから、下の座敷を子規に提供して、自分は二階に移った。

 しかし再建されたものは、別のものだ。私は二階に上って、北に松山城を見た。そしてこれだけが昔からあるものだと思った。

『句碑をたずねて』 (四国・九州路)

 昭和57年(1895年)、松山市一番町3丁目の萬翠荘敷地内にも復元された。平成22年(2010年)、災害のため倒壊、今はない。

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