このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
新年の旅日記
東野お茶屋跡
〜子規と虚子の句碑〜
松山市東野に愛媛農協学園がある。
農協神社
東野お茶屋跡
松平松山藩初代藩主定行の隠居所として、寛文元年(1661年)につくられた。裏千家千宗安の設計のもとに、3か年をかけて完成した、広壮な園庭で、建物には東野御殿の別称があった。
記録によると、周囲一里あまりを竹垣で囲み、北門を入ると東西に馬場があり、馬場東詰の中門を入ると御殿があった。御殿の西には壮大な池泉があり、「風呂のお茶屋」「竹のお茶屋」「傘のお茶屋」「いろはのお茶屋」等の草庵や安心堂などの小堂が配されていた。
御殿は建築から20年後に、また、「竹のお茶屋」など僅かに残された建物も明治初年には取りはらわれた。
現在は、池の北に「竹のお茶屋」跡、東に観音堂が残されている。それに池の西南端から吟松庵(弟定正の隠居所)に通じていた。東海道五三次を模した宿駅は開墾で破壊されたが、周囲の竹林に昔の面影を僅かにしのぶことができる。
松山市教育委員会
高浜虚子の句碑
があった。
ふるさとのこの松伐るな竹切るな
昭和33年(1958年)5月、東野御茶屋史蹟保存會建立。
高浜虚子が昭和26年9月21日、子規50年祭に帰省し、東野を訪れたときの句(「ホトトギス」昭和27年9月号に所載)。
虚子の祖父池内政明は壮年のころ、東野にあった藩候の別邸を管理していたので、とくになつかしんでの句。
松山市教育委員会
『俳句の里 松山』
秋の蚊や竹の御茶屋の跡はこゝ
ふるさとの此松伐るな竹伐るな
九月二十一日 東野を通る。
『七百五十句』
正岡子規の句碑
もあった。
閑古鳥竹のお茶屋に人もなし
明治28年(1895年)、正岡子規が松山に帰省したときの句。
松山東野
閑古鳥竹のお茶屋の人もなし
『寒山落木 巻四』
(明治二十八年 夏)
昭和33年(1958年)5月、東野御茶屋史蹟保存會建立。安倍能成揮毫。
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