このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
〜
2015年
〜
平泉寺白山神社
〜芭蕉の句碑〜
勝山市平泉寺町平泉寺に白山神社がある。
白山神社参道
平泉寺白山神社
福井・石川・岐阜の3県にまたがる白山(標高2,702m)は、富士山や立山とともに古くから信仰の山とされてきました。「越の大徳」といわれた泰澄大師は、養老元年(717年)この地の「林泉」(御手洗池)で神託を得て白山を開き、平泉寺を創建されました。平泉寺は中宮平泉寺とも呼ばれて白山信仰の中心地となり、越前馬場として栄えるようになりました。中世には、白山神社境内を中心に48社36堂6千坊が建ち並び、また多くの荘園を持って強大な勢力を誇っていました。源義経・弁慶らの一行も、この平泉寺に立ち寄ったと伝えられています。ところが一乗谷の朝倉義景が滅んだ翌天正2年(1574年)一向宗徒の一向一揆勢が乱入して、一山ことごとく焼失してしまいました。11年後顕海僧正が平泉寺を再興され、江戸時代には平泉寺から白山にいたる広い地域を、平泉寺の白山社領として支配しました。明治5年(1872年)に白山は石川県になり、平泉寺の支配から離れることになりました。これより先の神仏分離令により、明治3年(1870年)平泉寺の寺号を廃して白山神社になりました。
参道の石畳、直立する菩提林の老杉、白山の神が現われたと伝える御手洗池、大拝殿の礎石、本社前の大石垣は、全盛時代の平泉寺の面影を残しています。また、六百数十年前に建てられた楠木正成の供養塔、永平寺奉納の石灯籠、拝殿の奉納額などが歴史の古さを伝えています。社務所の「旧玄成院庭園」は室町時代に細川高国により造園されたといわれ、国の名勝に指定されています。白山国立公園の一角をなす白山神社の境内一帯は、国史跡「白山平泉寺旧境内」として国の史跡となっています。杉木立に囲まれた神域は、青苔におおわれて静寂をなし、白山信仰の霊場として、いまなお多くの崇敬を集めています。
「中宮平泉寺参道」は
日本の道100選
に選ばれているそうだ。
社務所の前に芭蕉の句碑があった。
うらやまし浮世の北の山桜
『北の山』
(句空編)巻頭に収録。
元禄5年(1692年)1月16日、金沢の門人
句空
に贈った句である。
側面に「
発主旭窓楼白道百花園建部竹窓書
」とあるようだ。
文政4年(1821年)、百花園社中建立。
御手洗池
泰澄大師は養老元年(717年)白山登拝の途中に発見され、大師の祈念に応じて泉の中の影向石に白山の大神が出現され「神明遊止の地なり」とのお告げがあったため、当地に社を建てて白山の神を奉斎されたと伝える。当社発祥の地であり、「平泉寺」や「平清水」(平安時代の呼称の1つ)の名の由来の地である。神泉は今も絶えることなく湧き出ている。
池の東(拝殿側)に聳える三叉杉はこの時大師が植えられたものと伝え、一千二百数十1280年を経て健在であり、幹の途中から3本に分かれ白山三社をかたどる形となっている。御神木であり注連縄が張られている。
白山神社拝殿
拝殿 安政6年(1859年)の造営
天正2年(1574年)兵火にかかって焼失する以前は、正面45間という我が国最大の拝殿であった。今も左右に残る巨大な礎石が規模の雄大さを物語っている。その中央部に再建された現在の拝殿は、江戸時代の寄棟造味榑葺
(くれぶき)
の簡素な建物ではあるが、天平時代の風情をよく残しているといわれる。
白山神社本社
御本社 寛政7年(1795年)の造営
御祭神 伊弉冊尊
(いざなみのみこと)
。現社殿は越前藩主松平重富公による再建で総欅
(けやき)
の入母屋榑葺
(くれぶき)
。昇り竜・下り竜の丸彫、壁面の浮彫などの彫刻も秀逸で、奥越には珍しい華麗な建築である。
御本社を中心に右に別山社、左に越南知社を配するのは、白山山頂の三山のそれぞれの神を祀っているからであり、このように白山三社の神々を勧進することは当社創建以来の姿と思われる。今は失われているが、中世から近世には、さらに金剱(かなつるぎ)社と加宝社が加えられ、五社が整然と立ち並ぶさまは壮観であったと思われる。
「しらやま」ではなく「はくさん」と読む。
昭和29年(1954年)9月27日、
水原秋桜子
は平泉寺を訪れている。
平泉寺にて
苔厚く霧また厚き杉木立
道絶えて霧の倒れ木の奥知らず
『玄魚』
白山平泉寺歴史探遊館
「まほろば」
があった。
平成24年(2012年)10月6日、オープン。
「平泉寺の歴史」の映像はよかった。
平泉寺白山神社は「大人の休日倶楽部」のCM撮影地。
私の旅日記
〜
2015年
〜に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください