このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2014年
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旧滝沢峠
〜芭蕉の句碑〜
会津若松市一箕町の白河街道を行き、旧滝沢峠に向かう。
旧滝沢峠(白河街道)
この峠は、天正19年(1591年)にときの会津領主蒲生氏郷により、若松から白河に至る白河裏街道として開かれました。
寛永4年(1627年)に
会津
に入部した加藤嘉明も街道の整備に力を入れましたが、雨天や雪解け時などには泥道となって往来に困難したため、その子明成は寛永9年(1632年)から11年(1634年)にかけて、延べ8万人の人足を動員して石畳道に改修、冬坂峠の表街道を廃止して滝沢道を表街道としました。以来大名の参勤交代、旅人の往来などに利用されて、大変賑わった街道でありました。
新奥の細道
環境庁・福島県
「舟石」があった。
舟 石
伊弉諾・伊弉冉尊が会津に天降らせ給うた際、投じられた鉾が化して八角の水晶となった。そこで伊舎須弥神社として崇め、宮を号して八角と云う、と言い伝えられています。その宮というのは会津若松市内にある八角神社のことで、古くは伊舎須弥神社と呼ばれておりました。
また、神が天降る際に乗り来たった船が化して石となったのが、この舟石であるといい、昔から名所でありました。
ハァー恋(鯉)の滝沢
舟(鮒)石越えて
親は諸白 子は清水
新奥の細道
環境庁・福島県
旧滝沢峠・芭蕉句碑・舟石
この付近は滝沢峠と言って、峠の茶屋があって旅人はここで休んだ。
寛永4年(1627年)会津藩主になった加藤嘉明がそれまでの背炙峠を通る道を廃止し、滝沢峠を通る道を開いた。また、その子加藤明成のとき、寛永11年(1634年)石だたみの路を完成させた。現在でもそのときの石だたみが残っている。
近くには、江戸時代の俳人である松尾芭蕉の句集の1句を石に刻んだ句碑や八角
(やすみ)
神社の伊舎須弥明神が会津に鎮座されるときに乗ってきたとされる舟が石となった舟石がある。
滝沢から金堀までの旧街道も明治15年(1882年)荷馬車の通行ができる滝沢南新道が開通し、明治19年(1886年)には、国道旧49号線(北新道)が開通した。
会津若松市一箕町 旧滝沢街道ふれあいまつり実行委員会
芭蕉の句碑
ひとつ脱てうしろおひぬ衣かへ
碑 陰
芭蕉翁東遊蹤跡不及此土人為憾矣
今采其集中一句刊石以寓吾黨慕
藺之意云幹事者五人曰香雪梅二精
器華然可應助之者七人曰宗二香村
羽長了雄雙六伊勢二峯女史
天保庚子夏四月
貞亨5年(1688年)4月1日、
『笈の小文』
の旅の途中の句である。
天保11年(1840年)4月、建立。
芭蕉の句碑
150年前、奥の細道行で芭蕉が会津に足を運ばなかったことを惜しみ、会津俳壇の宗匠らが集まって芭蕉の紀行句集の中の1句を石に刻み、天保11年(1840年)に建てたものです。
ひとつ脱てうしろおひぬ衣かえ 芭蕉翁
この場所には、明治の初めころまで茶屋があり、若松に出入りする人たちのよい休み場となっておりました。
新奥の細道
環境庁・福島県
稚児百合が咲いていた。
明治39年(1906年)10月20日、河東碧梧桐は
戸ノ口十六橋
から滝沢峠を越えて東山温泉に向かった。
提灯を借りて出る。日はすでに落ちてただ一条の道が白く見えるのみである。
磐梯を霧こめて暮色大なり
滝沢峠を上りつめた足下に若松の賑やかな灯火が展開した。灯は賑やかであるが、物の音は何一つ聞えぬ。どんよりと静かな光景である。
湖を見て夜越えになりし夜寒かな
『三千里』
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