このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2012年
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笠松みなと公園
〜芭蕉の句碑〜
笠松町の港町から相生町にかけて「笠松みなと公園」がある。
川灯台
木曽川笠松渡船場跡[石畳]
県道14号岐阜稲沢線の鉄橋が見える。
対岸は愛知県。
木曽川流域の物資を江戸(東京)や大坂(大阪)に送るときは、笠松や桑名で船積みされていた。相生町から港町にかけて大八車を使用して笠松湊まで荷物を運んだため、車輪がくいこまないように丸石をもって石畳を敷きつめられたといわれる。
「野ざらし芭蕉道」
野さらしを心に風のしむ身哉
昭和63年6月笠松町制100年に際し、笠松港公園みはらしの広場に句碑を建て、これら美濃国の足跡を総括して俳聖の「野ざらし芭蕉道」と称することにした。
「芭蕉」の句碑
時雨ふれ笠松へ着日なりけり
出典は
『芭蕉翁句解参考』
。
存疑
句である。
『芭蕉句鑑』
には「元禄二巳年 冬の部」に収録されている。
春風やきせるくはへて船頭殿
出典は
『もとの水』
。
『
俳諧
一葉集』
、
『芭蕉翁句解参考』
にも収録されているが、
存疑
句。
笠松と松尾芭蕉
貞享元年(1684年)秋8月「野ざらしを心に風のしむ身かな」と詠み江戸を旅立った芭蕉は、郷里伊賀上野を訪ね美濃大垣に到着した。それより船で揖斐川を下り、桑名を経て名古屋に留杖し蕉風の樹立となった。やがて芭蕉は郷里で越年すべく12月21日ころ
熱田
を発つとき「笠松へ着日」と詠み、美濃に入り笠松に1泊した。
蓮国禅寺
に「木槿塚」がある。それより関ヶ原を経て美濃を出るとき、今須寝物語の里 にて「正月も美濃と近江や閏月」と吟じ郷里へ着き、「
歳くれぬ笠着て草鞋はきながら
」と詠み越年した。
翌2年春2月上野を発った芭蕉は、大和を巡り水口を経て中山道を鵜沼に向かった。途中細畑より「
木瀬草庵
」を尋ね3月23日ころ野中
正伝禅寺
に泊まり「
野中の日影
」「雲雀ふたつ」の吟を残した。
鵜沼脇本陣
に宿った芭蕉は大鉢に吟行、3月26日ころ木曾川を船で下り、笠松を過ぎた辺りで「船頭殿」と詠み、桑名を経て再び熱田に留杖した。その後木曽・甲斐を経て夏4月末
江戸深川
に9ヶ月ぶりに帰庵し「夏衣いまだ虱をとりつくさず」と詠んだ。
この旅の記を
『野ざらし紀行』
と呼ぶ。
芭蕉翁顕彰会誌
岐阜県笠松町
熱田から「美濃に入り笠松に1泊した。」というのは、いかがなものか?
「野中の日影」の「野中」が地名だとは思わなかった。
「芭蕉」の句碑の左に高橋清斗の句碑があった。
初茜流るゝ木曽の大河かな
高橋清斗は笠松町北及の人。美濃派以哉派三十二世。
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