このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2009年
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茂左衛門地蔵尊
〜芭蕉の句碑〜
徒渉万葉歌碑
から利根川を渡ると、高台の上に茂左衛門地蔵尊がある。
茂左衛門地蔵尊
茂左衛門地蔵尊由来記
今から凡そ300余年前のこと、上州沼田領3万石の城主真田伊賀守信直は華美放漫の政治をした為に藩の財政は窮乏したので、これが立直しの為領民の苦境をも考えず、寛文年間再度に亘り無理な検地をして3万石を約5倍にあたる14万4千余石とし、その上、凶年続きで困苦のどん底にあえいでいる百姓から苛酷な取立てを行い、滞納者には残酷な刑罰に処した。
この惨状を見るにしのびず、利根、吾妻、勢多の3郡177ヶ村の領民の為に一命を捨てる覚悟で立ち上がったのが月夜野の百姓茂左衛門である。茂左衛門は姓を杉木と言い、義気に富んだ中流の百姓であった。天和元年(1681年)正月、領主真田伊賀守の非行、領民の惨状をしたためた、訴状を懐にひそかに江戸に上り、上野輪王寺宮から将軍家へ巧妙な方法で直訴に成功した。
時の将軍(五代綱吉)は取り調べの結果、罪状明確なので、伊賀守は改易
沼田城
破却の運命となった。
茂左衛門は本望を遂げたのを見届けたので、ひそかに郷里に帰り、妻に別れを告げ、自首を決意して江戸へ向かうところを小袖坂で幕吏に捕えられ江戸送りとなり、取調べの上所成敗となり、天和2年12月5日、月夜野竹の下河原で磔刑(はりつけ)に処せられた。
領民はその死をいたみ、刑場あとに地蔵尊を建て供養を続け、その遺徳をしのびきたが、大正11年、旧領地をはじめ各地の篤志家からの淨戝によって、こゝに茂左衛門を祀る千日堂が建立されたのである。
茂左衛門地蔵尊千日堂運営委員会
義人茂左衛門之碑
芭蕉の句碑があった。
川上とこの川下や月の友
出典は
『続猿蓑』
。
元禄6年秋、深川の
五本松
で詠まれた句。
『はせをつか』
(楓幻亜編)に収録されている。
建立年代は不明。
猿ヶ京関所関守の七十二歳翁片野文志書。
大正11年(1922年)10月20日、
若山牧水
は沼田から法師温泉に行く途中で茂左衛門地蔵尊に参詣した。
月夜野橋を渡ると直ぐ取つ着きの岡の上に御堂はあつた。田舍にある堂宇としては實に立派な壯大なものであつた。そしてその前まで登つて行つて驚いた。寧ろ凄いほどの香煙が捧げられてあつたからである。
『みなかみ紀行』
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