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私の旅日記2004年

西の河原公園 〜碑巡り〜
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関越自動車道上里SAのユリの木


2週間前 と比べると、かなり葉を落としている。

関越自動車道高崎ICから県道27号高崎駒形線で高崎方面へ。


烏川を渡って右折し、国道406号に入る。


須賀尾峠を越えると草津が見える。


正面は草津白根。まだ、雪はない。

雪はないが志賀草津ルートは11月18日で冬季通行止め。

紫式部の実


国道406号から国道145号、さらに国道292号に入り、草津へ。

天狗山第一駐車場に車を停めて、西の河原公園へ。


西の河原公園に 斎藤茂吉の歌碑 があった。


いづこにも湯が噴きいでてながれゐる谷間を行けば身はあたたかし

昭和8年(1933年)、 斎藤茂吉 は輝子夫人を伴って訪れたそうだ。

斎藤茂吉碑

 (1882−1953)精神医学者。ドイツに学び長崎医専教授。東京・青山脳病院長。
 アララギ派の歌人。最初の歌集『赤光』は近代短歌に衝撃的な影響を与えた。
 現代歌人の最高峰と評価され、文化勲章受章。
 戦後、山形県にこもったが、晩年の歌集『白き山』はその頂点に聳(そばだ)つ作品といわれている。
 草津には昭和8年9月16日に照子夫人と共に訪れ、望雲館に2泊した。
 その時の日記には、宿から白根山を見たスケッチが残されている。

  「望雲館」 は慶長4年(1599年)創業の老舗旅館。 高村光太郎 も昭和2年、昭和8年に泊まっている。7代目は 黒岩鷺白 という俳人で、 小林一茶 と親交があった。

ベルツ・スクリバ両博士像


 明治時代、東京帝国大学(現在の 東京大学 )に「内科にベルツ、外科にスクリバあり。」と言われて、日本近代医学の基礎を築いたのが両博士です。両博士とも無二の親友で、共に草津温泉を科学的に研究し、その医学的効能を世界に知らしめ、またスクリバ博士は、町民に無料で診察を施し、町民から深く親しまれました。

 明治40年(1907年)4月4日、東京帝国大学にブロンズ像を建立。戦時中軍需資材として供出されることになり、大学ではセメントでコピーを作ったが、供出前に戦争が終わりブロンズの像は残った。そこで大学はセメントの像を草津町に贈った。

昭和45年(1970年)、草津町はベルツ・スクリバ両博士像を建立。

ベルツ・スクリバ両博士像の脇に 水原秋桜子の句碑 があった。



胸像は永久に日本の秋日和

大正7年(1918年)、 水原秋桜子 は東京帝国大学医学部卒業。

昭和41年(1966年)5月、水原秋桜子は 熊の湯 から渋峠を越えて草津に遊ぶ。

   草津 二句

梅雨ながら草の色なし硫黄谷

山菜の小鉢ならぶや時鳥

『殉教』

昭和57年(1982年)10月1日、草津町・草津ベルツ協会建立。

『秋櫻子句碑巡礼』(久野治著)によれば、第93番目の秋桜子句碑である。

草津温泉「大阪屋」 へ。

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