このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
其角ゆかりの地
宝井其角寓居乃跡
大津市本堅田に
本福寺
という寺がある
。
本福寺の東に「宝井其角寓居乃跡」の碑があった。
其角邸跡
この地は、蕉門十哲(芭蕉の高弟)の一人、
宝井其角
の父、竹下東順の出生地である。地元では「其角邸跡」と呼んでいる。
医術を業とした東順は、慶安4年(1651年)に江戸に下り、膳所藩主本多公の江戸屋敷に仕えた。早くから風雅の心を有し、其角もその影響を受けるところとなった。
寛文元年(1661年)7月17日、江戸で生まれた其角は、榎本(母方の姓)を姓とし、通称源助、幼名を八十八といった。俳号を其角としたのは、易の文の「其角を晋む」という言葉からの引用で、姓を宝井と自称したのは後年である。
延宝2年(1674年)14歳で芭蕉の門に入った其角は、たちまちのうちに頭角を表した。以来、芭蕉の高弟として各地で蕉風の宣揚に努めた。とりわけ父の出生地である堅田には、心のふるさとを見い出し、しばしば杖を引き、同地を本拠に本福寺の
千那
をはじめ、膳所の
菅沼曲翠
、彦根の
森川許六
等々と親交を重ねた。其角の俳風の特色は、時代の活気を反映した明るさが本領で、洒落風として、師風にはみられない独自の境地を築いた。
堅田をはじめ、湖畔での句には
「初生やいとせいとゝせ柿の数」
「蓬莱にあふみの婆々や松の雪」
「婆に逢ひにかゝる命や勢田の霜」
「帆かけ舟あれや堅田の冬けしき」
などの代表作がある。
堅田は、今もなお蕉門の余韻を色濃く伝え、俳句会の盛んなところであるが、これら歴史は、同地をふるさととする東順に発し、其角によって築かれ、
千那
等を経て伝えられてきたといえる。
其角は、宝永4年(1707年)・享年47歳でもって没した。江戸芝二本榎の
上行寺
に葬むられ、「うぐいすの暁寒しきりきりす」が辞世の句であった。
元禄元年(1688年)10月、其角は千那と共に堅田を訪れる。
千那
に供
(ぐ)
して父の古郷、
堅田の寺へとぶらひけるとて
婆に逢にかゝる命や勢田の
其角
『いつを昔』
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