このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
蓼太の句碑
たましひの入れものひとつ種ふ
龍ヶ崎市砂町の医王院に
大島蓼太
の句碑があるというので、行ってみた。
医王院は
曹洞宗
の寺である。
本尊は薬師瑠璃光如来。「砂の薬師」といわれている。
醫王堂
醫王堂の手前左手に大島蓼太の句碑があった。
たましひの入れものひとつ種ふくべ
天明7年(1787年)9月7日、大島蓼太は70歳で没。
筑波庵翠兄
は
大島完来
を招き、河内町長竿にある翠兄の別宅銀雨亭で法要を営んでいる。
龍ヶ崎市指定文化財 史跡
蓼太句碑
雪中庵
蓼太
は信州伊那郡大島村の人。芭蕉門十哲のひとり
服部嵐雪
(一世雪中庵)の流れをくむ俳人で、雪中庵三世を称し、江戸中期の俳壇において活躍した宗匠である。著書に『筑波紀行』、『蓼太句集』、『発句小鑑』などがある。
この句碑の表面には「たましひの入れものひとつ種ふくべ」と蓼太の句が刻まれ、裏面には「空摩居士自隠禅士の隻手の音を聞く……、居士は天明七年丁未九月七日を以て没す、今慈に二十七回忌の正当を営む、よって常陸、しもふさの我おしえる子等と力をあわせ、遠つ海の石を運びて瑠璃光山に分骨を納む、なほ枯木裏の龍吟となりて、とこしなえに尽せざれと。 文化十年癸酉九月七日、筑波庵道隣謹記、薫堂井敬儀筆」と記されている。建立者道隣とは、上町杉野治兵衛氏のことで、俳人筑波庵翠兄と称して龍ヶ崎を中心とした常陸・下総に多くの門弟をもち、晩年蓼太に傾倒し高弟となった。 天明元年(1781年)、蓼太は龍ヶ崎に招かれ、数日間滞在して探題を催し、
頼政塚
や奈戸岡三本松などの名所旧跡の句を残し、著作
『筑波紀行』
には、翠兄と同行の句がある。蓼太の没後二十七回忌にあたる文化10年(1813年)に、翠兄は常陸・下総にわたる門人を集めて、その供養を営み、この句碑を建立した。
龍ヶ崎市教育委員会
蓼太は「飯島本郷村の人」という説もある。
一茶の
『知友録』
には「
常陸竜ヶ崎 杉野治右衛門 翠兄
」とある。
文化10年(1813年)10月27日、没。享年60。
俳 人
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