このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
『奥の細道』
〜東北〜
〜二夜庵跡〜
磐井川に架かる磐井橋の袂に「二夜庵跡」があった。
漂泊の詩人
松尾芭蕉二夜庵跡
芭蕉奥州路最北の宿
芭蕉二夜庵
跡
俳聖・松尾芭蕉が弟子・曽良を伴い奥の細道行脚の旅で一関を訪れたのは元禄2年(1689年)5月12日、雨の夕暮れだった。
翌13日は平泉に遊趣し、
高舘
、衣川、
中尊寺
などを巡り一関に帰る。金森家は芭蕉翁が二泊したことから二夜庵と呼ばれるようになった。
14日はここを立ち、
尿前ノ関
を越えて日本海の出羽の国に入った。
詩歌俳諧の聖典『おくのほそ道』の頂点にあたる平泉の著述が、ここに宿することで編まれたことを思うと、二夜庵の存在は大きい。
社団法人
一関青年会議所
明治39年12月2日、河東碧梧桐は
登米
(とよま)
を立ち、一関に着いた。
十二月二日登米出発。師竹破瓢同導。船にてその夜一の関着。翌三日一の関の俳人数名案内して、巌美渓より中尊寺に詣ず。翌四日一の関滞在。
『三千里』
『曽良随行日記』の碑文があった。
奥の細道曽良旅日記抄
元禄二年五月
十二日 曇。
戸今を立。安久津雨強降ル。馬ニ乗。一リ加澤。三リ、皆山坂也。一ノ関黄昏ニ着。合羽モトヲル也。宿ス。
十三日 天氣明。
巳ノ尅ヨリ平泉ヘ趣。一リ山ノ目。高館・衣川・中尊寺・秀平やしき等ヲ見ル。申ノ上尅帰ル。主、水風呂敷ヲシテ待。宿ス。
十四日 天氣吉。一ノ関ヲ立。
碧梧桐は「岩手の里」を「今の一の関でなければならぬ。」と書いている。
十二月五日。快晴。暖かなり。
奥の細道に中尊寺を見て後、
南部道遙にみやりて
岩手の里
に泊る。
小黒崎
みつの小島
を過ぎて、なるこの湯より
尿前の関
にかゝりて出羽の国に越んとす
とある。
これによると小黒崎みつの小島など皆陸前の名所で、鳴子の湯もその玉造郡の出羽に近い処であるから、芭蕉は奥の細道を平泉に止めて、一旦南下したことがわかる。
然るにここに「岩手の里」とあるのが不審で、平泉以南に岩手の里という処はない。地理上から案ずると、どうしても今の一の関でなければならぬ。一の関はまた磐井ともいう。これは大方「岩井の里」の誤りであろうと思う。
芭蕉が書き誤ったか、あるいは後世書写の誤りか、いずれにしても、岩手の里というて、盛岡あたりの事を平泉辺でいう所以はない。
『奥の細道』
〜東北〜
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