このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

『奥の細道』   〜東北〜


〜尿前の関跡〜

国道47号(北羽前街道)で鳴子温泉を過ぎる。


尿前の関跡がある。


 元禄2年(1689年)5月15日(陽暦7月1日)、芭蕉と曽良は尿前の関を越え、出羽の国に入った。

 南部道遥にみやりて、岩手の里に泊る。小黒崎みづの小嶋を過て、なるこの湯より、尿前の関にかゝりて、出羽の国に越んとす。此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。

関所の跡らしく、柵が作られていた。

 元禄9年(1696年)、天野桃隣は尿前の関を通っている。

 川向尿前と云村アリ。則しとまへの関とて、きびしく守


  義経 が平泉に落ちる時、義経の奥方が亀若丸を生む。弁慶がここはまだ敵地だから、産声を上げないようにといったため、亀若丸は泣かなかった。尿前の関の所で、亀若丸は初めて小便をした。それで「尿前」と呼ぶようになったという。

 姥の湯で産湯を使い、亀若丸は初めて産声をあげたので鳴き子と称した。これが今の鳴子温泉の地名のおこりだそうだ。

 昭和2年(1927年)10月、小杉未醒は「奥の細道」を歩いて、尿前の関を訪れている。

 鳴子の温泉は、今は繁盛ながら、案内記を見ても遂近年の發展、芭蕉翁の頃はほんに微かな山の湯であつたらう、尿前の關の跡は今も在つて、温泉から半里ほど、大谷と荒尾の二溪合流の處、山ふところの陰氣な小村、關守の遊佐氏は昔からの家柄、今は落魄したと云ふ、


 昭和6年(1931年)、 斎藤茂吉 は鳴子、 中尊寺石巻塩釜 、松嶋、 仙台 を巡っている。

元禄の芭蕉おきなもここ越えて旅のおもひをとことはにせり

歌集『石泉』(鳴子途上)

 昭和39年(1964年)、 水原秋桜子 は尿前の関を訪れている。

尿前のふるみち失せぬ雨蛙(あまかわず)

『殉教』

「尿前の関跡」に 芭蕉の句碑 がある。

『奥の細道』   〜東北〜 に戻る


このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください