このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
『奥の細道』
〜東北〜
〜岩手の里〜
琵琶の沢温泉
から国道47号(北羽前街道)を行くと、芭蕉が3日間逗留した
「封人の家」
がある。
中山峠を越えると、宮城県。
尿前の関跡
がある。
鳴子温泉を過ぎると、
小黒崎観光センター
がある。
芭蕉像が雨に濡れていた。
鳴子町から岩出山町に入る。
岩出山町(HP)
は芭蕉一宿の地。
芭蕉で町興しをしているのだから、芭蕉の遺跡は整備されているのだろう。町役場に行って聞いてみた。町役場では感動するほど親切に教えてくれた。
おくのほそ道と岩出山
元禄2年(1689年)5月14日(陽暦6月30日)、一関を旅立って南下した芭蕉は、その日ここ岩出山に投宿し「おくのほそ道」に「南部道はるかにみやりて、岩手の里に泊る。」と書き残しています。
入口半道程前ヨリ右ヘ切レ、一ツ栗(一栗)ト云村ニ至ル。小黒崎可見トノ義也。遠キ所也(二リ余)。故、川ニ添廻テ及暮。岩手山ニ宿ス。『曽良随行日記』
その日のうちに
小黒ヶ崎
、
美豆の小島
を見ようと足を進めましたが、2里(約8km)も先であるため、岩出山に戻り投宿し、翌15日に訪れたことがわかります。
なお、芭蕉が投宿したのは石崎屋という旅籠で、現在の岩出山交番付近にあったといわれています。
河東碧梧桐は「岩手の里」を「岩井の里」の誤りであろうとしている。
これによると小黒崎みつの小島など皆陸前の名所で、鳴子の湯もその玉造郡の出羽に近い処であるから、芭蕉は奥の細道を平泉に止めて、一旦南下したことがわかる。
然るにここに「岩手の里」とあるのが不審で、平泉以南に岩手の里という処はない。地理上から案ずると、どうしても今の一の関でなければならぬ。一の関はまた磐井ともいう。これは大方「岩井の里」の誤りであろうと思う。
『三千里』
(十二月五日)
河東碧梧桐の誤りである。
商店街のポケットパークにある芭蕉像。
芭蕉像の隣に岩出山交番がある。岩出山交番の隣が「芭蕉一宿の地」らしい。
この時芭蕉が通ったと思われる古道が「国指定史跡陸奥上街道」として整備され、いにしえを偲ぶことができます。
元禄9年(1696年)、天野桃隣は磐提山
(いわでやま)
を訪れて、句を詠んでいる。
是より岩手へかゝる。磐提山、則城下の名也。いはでの関此所なり。
為家の山梔
(くちなし
)白し磐提山
[無都遅登理 五]
県道17号栗駒岩出山線が「陸奥上街道」らしい。
岩出山町から
千本松長根
へ。
2006年3月31日、岩出山町は古川市、三本木町、松山町、田尻町、鹿島台町、鳴子町と合併して大崎市になった。
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