このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

『奥の細道』   〜東北〜


長山重行宅跡

鶴岡市山王町の長山小路に長山重行宅跡がある。


奥の細道 芭蕉翁滞留の地 長山重行宅跡


松尾芭蕉翁滞留の地 長山重行宅

 元禄2年(1689年)6月10日(陽暦7月26日)、俳聖松尾芭蕉は 羽黒山 を下って、鶴岡城下に住む庄内藩士 長山右衛門重行 の屋敷に入った。芭蕉翁は三山巡拝の疲れかすぐに休息したが、夜になって曽良・重行・ 呂丸 と歌仙をまいた。「めずらしや山をいで羽の初茄子」はそのときの翁の発句で、食膳に供されたこの地方の名産一口なす(民田なす)が目にとまったものであろう。

 翁は重行宅に3日間滞在し、13日に近くの内川船着き場から川船で 酒田 に向かった。

 長山重行は、呂丸や岸本公羽と共に蕉門の俳人として、鶴岡俳壇に重きをなした人物である。重行は元禄13年に外に屋敷替えになるが、このあたりはいまでも長山小路とよばれている。

 明治40年(1907年)10月26日、河東碧梧桐は長山重行について書いている。

 奥の細道にある長山重行という人の宅で催おした歌仙も漸く吾仲著「初茄子」(享保丁未冬十月)によって伝えられた。

 長山重行について古老の調べた処によると、幼名を佐太八、諱を恒行というた。後に与右衛門(また五郎右衛門)と改めたが重行はその俳名であった。あるいは竹戸という別号もあったらしい。重行は長山家の五代目に当る人で、その父五郎右衛門は最上家から酒井家に仕えて、武道歌道に通じておった。芭蕉とは江戸での知音であったらしい。その家の跡は今はかたばかりに残っておる。旧家であったと見えて、そこに長山小路という名が今に存する。

 重行の弟に通称五郎吉俳名師古という人があった。また隣に岸本八郎兵衛という人が住んでおった。俳号を公羽という。公羽の書き方が翁の字とまがい易いので、炭俵には公羽の句が翁と出ておると、支考も十論為弁抄に書いておる。そのほか姓名の判然としない以制、睡鴎、芝栗、丹流などいう俳人もあった。


長山重行宅跡に芭蕉の句碑があった。


めづらしや山をいで羽の初なすび

   元禄二年六月十日

      七日羽黒 に参籠して

めづらしや山をいで羽の初茄子
   翁

蝉に車の音添る井戸
   重行


長山重行宅跡南の内川に「奥の細道内川乗船地跡」があった。


 当時の酒田通いの船は、内川より赤川を経て最上川河口の酒田まで7里(約28km)、ほぼ半日を要したという。

 明治40年(1907年)10月26日、河東碧梧桐は鶴岡で川舟について書いている。

 芭蕉が「川舟に乗て酒田の港に下る」と書いた舟は、赤川というのを下るので、酒田まで、約十里鶴岡の北を流れて、最上川の河口より十余町の上に合する。当今車馬の便は開けたけれども、荷物の運般はこの舟によるものが多い。


 昭和40年(1965年)、 山口誓子 は鶴岡の「芭蕉乗船の地」を見に来た。

 羽黒山から鶴岡へ来て、私は、眼鏡橋と通称されている大泉橋の畔に佇んだ。それは内川に架っている橋だ。内川は赤川に入り、最上川に入り、海に入る。芭蕉は、大泉橋から舟に乗って、その水路を下って、酒田についた。

 芭蕉乗船の地として、その橋を私は見に来たのだ。私は橋上から見下して内川を見た。

『句碑をたずねて』 (奥の細道)

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