このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

『奥の細道』   〜東北〜


〜日和山公園〜

本間美術館 から日和山公園へ。


 酒田の日和山公園に芭蕉の句碑や 牧水の歌碑 を始め、数多くの句碑や歌碑がある。

芭蕉像もあった。


 平成元年(1989年)9月、酒田ロータリークラブ創立30周年記念事業として建立。

平成元年(1989年)は松尾芭蕉奥の細道紀行300年。

芭蕉の句碑


温海山や吹浦かけてゆふ涼み

元禄2年(1689年)奥の細道の途次、 伊東不玉 宅でよまれた句。

   出羽酒田の湊、伊東不玉亭にて

あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ
   ばせを

 海松(みる)かる礒に畳む帆莚
   不玉


 天明8年(1788年)、酒田の俳人柳下舎寸昌が須磨明石の俳人武然の書で設立。

 柳下舎寸昌は亀ヶ崎の士族柿崎氏の出で、一雄房とも号した。四時庵信夫の門人。

 大正14年(1925年)8月22日、 荻原井泉水 は日和山公園を訪れて芭蕉の句碑を見ている。

 この日和山というのは、公園になっていて、松の林の中に、散歩道が出来ており、合歓の花が咲き、薄が風に吹かれていた。

   温海山や吹うらかけてゆふ涼   芭蕉

                     柳下園連中

 この句碑もあった。

『随筆芭蕉』 (鶴岡と酒田)

 昭和40年(1965年)、 山口誓子 は日和山公園に句碑を訪ねている。

 私は羽越本線で酒田へ向った。酒田の宿は日和山公園の下の菊水ホテルだったから、宿を出て日和山へ登った。

 公園に入って直ぐ右手に、句碑が立っている。かなり大きな自然石だ。

   温海山や吹うらかけてゆふ涼

 酒田に来た芭蕉は、不玉亭を宿とした。この句はそこで作られた。

『句碑をたずねて』 (奥の細道)

もう1つ芭蕉の句碑があった。


暑き日を海にいれたり最上川

 昭和54年酒田ロータリークラブが建立。元禄2年(1689年)奥の細道の途次、酒田滞在中によまれた句。書は素竜本からとって刻まれた。

酒田市中町1丁目に 安種亭令道寺島彦助宅跡 がある。


 芭蕉は不玉の家にばかりおったのでなくて、通称彦助という者の宿にも滞留した。寺町のさる家であったとばかりで、これも訊ぬべき資料はないそうなが、「暑き日を海に入れたり最上川」は彦助方の作である。句集に寺島彦介亭という前書がある。


安種亭令道寺島彦助宅跡


   六月十五日、寺島彦介亭にて

涼しさや海に入(いれ)たる最上川
   ばせを

 月をゆりなす浪のうき海松(みる)
   令道


『曽良随行日記』には「十四日 寺島彦助亭へ 被招。俳有。」とある。

 6月19日、芭蕉は江戸に行く寺嶋彦助に杉風・ 鳴海寂照 ・越人宛ての手紙を託している。

○十九日 快晴。三吟始。明廿日、寺嶋彦助江戸へ被趣ニ因テ状認。翁より杉風、又鳴海寂照・越人へ被遣。予、杉風・深川長政へ遣ス。

『曽良随行日記』

 元禄9年(1696年)、天野桃隣は 象潟 から坂田へ戻る。

 此所より右の道筋を坂田へ戻る。尤此所より津軽・南部・越後筋へ順よし。


 元禄10年(1697年)、 惟然 は酒田を訪れ、句を詠んでいる。

   酒田 夜泊

出てみれば雲まで月のけはしさよ

『泊船集』 (巻之六)

 延享4年(1747年)7月6日、 横田柳几 は陸奥行脚で 象潟 から酒田へ戻る。

蚶潟より又酒田へ取て返しけれは例の人々待うけもてはやされかの青楼の風流なと見物させられ文月六日袖か浦の名残を引わかるゝとき

蚶潟や唐絵の中を秋の雲
   柳几

 明和6年(1769年)5月、蝶羅は象潟からの帰途、日和山を訪れ句を詠んでいる。

   袖の浦の風色を見せんと、日和山 へいざなハ
   れて、

誰とめた風のかほりぞ袖の浦
  蝶羅


常世田長翠の句碑 があった。


人の柳うらやましくもなりにけり

明治26年(1893年)8月9日、正岡子規は 清川 で上陸、陸路酒田を訪れた。

 道々茶屋に憩ふて茶を乞ふ。茶も湯も無しといふ。風俗の質素なること知るべし。歩む事五里再び最上川を渡り、限りなき蘆原の中道辿りて酒田に達す。名物は婦女の肌理細かなる處にありといふ。夜散歩して市街を見る。紅燈緑酒客を招くの家數十戸檐(のき)をならぶ。毬燈(きうとう)高く見ゆる處にしたひ行けば、翠松館といふ。松林の間にいくつとなくさゝやかなる小屋を掛けて納涼の処とす。此處の家古風の高燈籠を點ず。


 明治40年(1907年)10月12日、河東碧梧桐は清川で上陸し、人力車で酒田に着く。

   清川上陸

(には)か雨も冬の近さや西風も

   直に車を命ず

うそ寒み車売らるゝ途中哉

   酒田着

春来んと言ひしをうたゝ夜寒かな(羽後酒田にて)


23日、碧梧桐は「はて知らずの記」について書いている。

 果知らずの記を見ると、子規子は最上川の船をやはり清川に捨てて、それから徒歩で酒田に着いた。

歩む事五里再び最上川を渡り、限りなき芦原の中道辿りて酒田に達す。(中略)夜散歩して市街を見る。紅燈緑酒客を招くの家数十戸檐(のき)をならぶ。毬燈高く見ゆる処にしたひ行けば、翠松館といふ。松林の間にいくつとなくさゝやかなる小屋を掛けて納涼の処とす

とある。最上川を渡る、とあるのは今の新堀(にいぼり)という処の渡しで、まだ現在の両羽橋という大橋架らぬ時分の渡船であった。両羽橋は新堀から三十町ばかり下流にある。限りなき芦原はなおその面影を止めて、道の左右ただ茫々、すでに酒田の入口にありながら、町はいずこぞと疑わしめるほどである。が、果知らずの記当時に比べれば、順次田畑に墾(ひら)かれたらしく、蘆の中に飛び飛び麦の萌えた畑や、黍殻を抜きとった畝(あぜ)の跡などが見える。


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