このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2010年

虚空蔵堂〜芭蕉の句碑〜
indexにもどる

東海村村松に虚空蔵堂がある。


村松山日高寺

真言宗豊山派 の寺である。

 伊勢の朝熊(あさま)虚空蔵尊、会津の 柳津 虚空蔵尊とともに日本三大虚空蔵尊に数えられているそうだ。

 大同2年(807年)、弘法大師が虚空蔵菩薩座像を刻み創建したとされる。

 享保元年(1718年)9月25日、 千梅 は村松虚空蔵のことを書いている。

夕陽ちかくなれは村松の虚空蔵拝み残しぬ日本三虚空蔵の一体なりとかや


 明治33年(1900年)、民家の火災から堂塔伽藍すべてが焼失。

仁王門


昭和40年(1965年)、再建。

本堂


大正3年(1914年)、再建。

本尊は虚空蔵菩薩。

山村暮鳥の歌碑があった。


おう土よ生けるものよその黒さに太古のかほりがただよってゐる

 明治17年(1884年)1月10日、山村暮鳥は群馬郡群馬町棟高に生まれる。

 明治22年(1889年)8月1日、 室生犀星 は小畠弥左衛門吉種とハルの子として生まれる。

 大正13年(1924年)12月8日、暮鳥は40歳で没。

 昭和12年(1937年)、詩碑建立計画。

 昭和14年(1939年)、水戸来ていた室生犀星に揮毫を依頼するが、戦争により建立は実現しなかった。

 昭和37年(1962年)3月26日、犀星は72歳で没。

 昭和47年(1972年)、犀星の書発見。

 昭和51年(1976年)、詩碑建立。

 昭和52年(1977年)4月16日、除幕。参列者・冨士夫人・室生朝子・伊藤信吉。

三重塔


平成10年(1998年)、再建。

芭蕉の句碑があった。


埜越横耳馬引向よ時鳥

出典は『奥の細道』。

 元禄2年(1689年)4月16日(新暦6月3日)、芭蕉は黒羽の館代 浄坊寺桃雪 に野間まで馬で送られた。この時、馬方の求めに応じて詠んだ句である。

裏側から三重塔の写真を撮ってみた。


佐藤佐太郎の歌碑があった。


晴れし日の砂山のうへ濡石はみづから濡れて脂の如し

 明治42年(1909年)、宮城県に生まれる。幼少期に茨城県平潟町(現北茨木市)に移る。

 大正15年(1926年)、「アララギ」に入会。 斎藤茂吉 に師事。

 昭和43年(1968年)12月、四季を通じて常に濡れていて、愛好者に「濡石」と呼ばれ親しまれていた村松晴嵐碑に深く興味を持ち、詠んだ歌である。

村松晴嵐碑


水戸八景 村松晴嵐

 水戸八景とは水戸藩内の八つの景勝地で「仙湖暮雪」「青柳夜雨」(水戸市)、「山寺晩鐘」「太田落雁」(常陸太田市)、「岩船夕照」(大洗町)、「広浦秋月」(茨城町)「村松晴嵐」(東海村)、「水門帰帆」(那珂湊市)のことである。

 天保4年(1833年)、水戸九代藩主徳川斉昭(烈公)が中国の瀟相八景になぞらい、藩内の子弟に自然鑑賞と健脚鍛錬とを図るため、設定されたものである。

 烈公は、この村松の地を

真砂地に雪の波かと見るまでに塩霧はれて吹く嵐かな

と詠み「村松晴嵐」と命名された。

 この碑石の題字は烈公自らの書であり、天保5年(1834年)に建てたものである。

東   海   村
東海村観光協会

私の旅日記2010年 〜に戻る



このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください