このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
〜
2011年
〜
水沢公園
〜後藤新平〜
奥州市水沢区中上野町に水沢公園がある。
明治11年(1878年)、蓑虫山人
(みのむしさんじん)
が設計したとされる。
水沢公園内に高野長英記念館がある。
高野長英記念館入口に高野長英の碑があった。
水沢の生んだ幕末の蘭学者として名高い高野長英1804(文化元)年〜1850(嘉永3)年の碑で、1901(明治34)年に建てられたものである。
碑文は広瀬淡窓の門人である谷口中秋(佐賀県)の撰によるもので、その結びに「先師淡窓先生又言ス吾ガ門下ノ士数千人一飯ノ間モ国ヲ憂フルヲ忘レザル者ハ、其レ唯長英ノミカト、亦以テ其ノ人ト為リヲ知ルベキナリ」と漢文で刻まれている。
長英が天保の飢饉に直面して「救荒二物考」を著し、また「夢物語」にみられる先覚者としての見識と熱情がよくうかがわれる。
水沢公園の野球場と陸上競技場の間に後藤新平の銅像があった。
後藤新平銅像
(
朝倉文夫
作)
後藤新平は、安政4年(1857年)6月4日吉小路で生れ、11歳の時、藩校「立生館」に学び「郷の三秀才」の一人と云われた。
医業を志し、転じて内務省衛生局長となり、後に台湾民政長官、初代満鉄総裁を歴任、卓抜した手腕を振るった。逓信相兼鉄道院総裁、内、外相として台閣に列するほか、東京市長も歴任した。関東大震災後、内相兼復興院総裁を務め、その計画は100年後をも洞察した大見識であり、後年真価が認識されている。晩年は、ボーイスカウト、東京放送局初代総裁を務め、政治の倫理化運動を提唱し、国民指導を行った。外交では日露関係の正常化にも力をつくした。
昭和4年(1929年)4月13日、73歳で先見の政治家の幕を閉じた。
この銅像は、大連星ヶ浦公園(現星海公園)に建てられた銅像と同じ原型によって、昭和53年(1978年)6月に建立したものである。
後藤新平のボーイスカウト像もあった。
後藤新平銅像
(米治一作)
後藤新平は、安政4年(1857年)6月4日吉小路で生れ15歳で郷里をあとにした。苦学して須賀川医学校を卒業、明治14年(1881年)25歳で愛知病院長となる。明治31年(1898年)台湾総督府民政長官、明治39年南満州鉄道株式会社総裁を経て逓信大臣、鉄道院総裁、内務、外務大臣を歴任した。
大正9年(1920年)東京市長に就任。関東大震災後の帝都建設の百年先を洞察する大見識は後年に至りさらに真価を高めた。
また、日本ボーイスカウトの初代総長となり少年たちを指導した。さらに政治の倫理化運動に力を注いだ。昭和4年(1929年)4月13日波瀾に富んだ生涯を73歳で閉じた。
銅像は、大熊氏広の作により明治44年(1911年)に建立されたが太平洋戦争の際応召し、その後昭和46年(1971年)4月22日東北3県(青森、岩手、秋田)ライオンズクラブ年次大会302E−4地区の記念事業として、旧台座の上に日本ボーイスカウト初代総長の姿の銅像が建立された。
「郷の三秀才」の一人斎藤實の銅像もあった。
斎藤實銅像
(
朝倉文夫
作)
斎藤實は安政5年(1858年)10月27日吉小路で生れた。幼少から郷の3秀才(山崎為徳、後藤新平、斎藤實)の1人といわれた。明治6年海軍兵学寮に入り、海軍の道を進んだ。明治36年大佐で海軍次官に抜擢、明治39年海軍大臣となり、大正3年まで8年余にわたり5代の内閣に海相をつとめた。その後朝鮮総督を重任(大正8年、昭和3年)さらに首相内大臣となり国家の柱石として活躍した。昭和11年2月26日、いわゆる2.26事件の勃発により、79才をもって劇的な生涯を閉じた。
銅像は昭和13年に建設されたが、昭和19年に応召、昭和38年10月、斎藤實子爵銅像復元会が全国募金により復元したものである。
戊辰戦争の「弔魂碑」があった。
戊辰戦争
の際に出陣し、戦死した17士の弔魂碑である。戊辰戦争は慶応4年(1868年、明治元年)6月、戊辰の年に討幕派と幕府派とが争った国内戦争であり、同年1月3日鳥羽伏見で戦端が開かれた。
当時、東北地方における諸藩には反政府的動向が強く残っていたため、政府は、仙台藩に会津、庄内藩の討伐を命じた。しかし、仙台藩はその態度を明確にせず、かえって奥羽越列藩同盟を結成し、政府軍に対抗することとなった。
この戦争で仙台藩の一門である水沢藩も白河の役に出陣したが、石切山などで敗れ慶応4年6月12日に星隊長ら17人の死者を出すに至った。
留守家26代邦寧公および27代基治公はこれを深く悼み、28代景福に至りその志を継ぎ明治27年(1894年)にこの碑が建てられた。
大きな
正岡子規の句碑
があった。
背に吹くや五十四郡の秋の風
昭和24年(1949年)10月30日、砂金兵記建立。蜻蛉書。
揮毫者岩渕蜻蛉氏は子規門下虚子に學ぶ
正岡子規
(1867〜1902)の著
「果て知らずの記」
の中に「・・・午後の汽車にて水沢に赴く、当地公園は町の南端にあり青森・仙台間第一の公園なりとぞ桜、梅、桃、梨、雑木を栽う・・・」と賞賛しており、明治26年(1893年)8月19日水沢公園で詠んだ句である。子規このとき27歳であった。
この句碑は、昭和24年(1949年)に砂金兵記が建立したもので ある。
奥州行脚の歸途
背に吹くや五十四郡の秋の風
水澤公園割烹店
此門や客の出入にちる柳
『寒山落木 巻二』(明治二十六年 秋)
小さな
芭蕉の句碑
があった。
傘でおし分見たる柳かな
元禄7年(1694年)10月12日松尾芭蕉逝く。その6月に出された句集
『炭俵』
のなかの一句「傘でおし分見たる柳かな」を刻んだ句碑で、安永4年(1775年)夏草庵と二四庵社中が協力して建てたものである。はじめは柳町附近にあったものを公園に移したものといわれている。
嘉永5年(1852年)3月14日、吉田松陰は
鬼柳
から水沢へ。
相去に至れば仙臺の關あり。是れより以南は地形益々寛廣なり。又舟にて一川を渡り水澤に至る、伊達將監の采地なり。禄一萬五千石。
『東北遊日記』
「私の旅日記」
〜
2011年
〜に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください