このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
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志和八幡宮
〜芭蕉の句碑〜
紫波町上平沢八幡に志和八幡宮がある。
志和八幡宮
志和八幡宮由緒
志和に鎮座の八幡宮の祭神は誉田別命、武甕槌命にして清和天皇の貞観4年(863年)8月に山城国(現在京都)
男山八幡宮
を勧請されたものであると伝えられている。
そもそも八幡宮は源氏累世の氏神にして、康平5年(1062年)鎮守府将軍源頼義朝臣長男八幡太郎
義家
が奥賊誅伐のため、志和の陣を発するにあたり、志和八幡宮に戦勝を祈願したところ、“白鳩舞い遊ぶを観る” 戦、利あらず苦戦の時、その白鳩再び飛び来たると見るうちに、忽ち暴風起こり、賊城中より煙焔立ちのぼるを見る。その時鬨の声をあげて攻めたて、遂に賊を平定、当地方を安住の地としたと伝えられている。
又、代々の南部藩主の崇敬篤く、慶長年間利直公より祀田43石4斗1升の寄進がなされ、明治4年10月には郷社に列せられた。
毎年正月5日、義家戦勝、報恩感謝のため、夜明に大篝火を焚上げ、御勧日、五元日祭、が今日まで盛大に祝われている。
志和八幡宮の祭神は武勇の神であると共に平和の神、家内安全、商売繁昌、無病息災、交通安全の神としてあがめられている所以でもある。
社殿の左手奥に芭蕉の句碑があった。
芭蕉翁桃青居士
初時雨猿も小蓑をほしけなり
『猿蓑』
(去来・凡兆共編)冒頭の句。
元禄2年(1689年)9月下旬、芭蕉46歳の作。
『卯辰集』
には「
伊賀へ歸る山中にて
」と前書きがある。
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