このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
〜
2008年
〜
江島神社
〜奥津宮〜
稚児ヶ淵の
芭蕉の句碑
から江島神社奥津宮に向かって坂を上る。
高木蒼悟の句碑があった。
高木蒼悟は江島神社の宮司で、俳諧の研究者でした。著書の『俳諧人名辞典』で文部大臣賞を受賞したことを記念して、当時の江島神社宮司相原直八郎が昭和36年(1961年)に建立したものです。江の島には春の句が多いなかでは異色であり、
夏富士や晩籟神を鎮しむる
※晩籟 …… 夕方の風の音の意味
の句が刻まれています。
江島神社(HP)
奥津宮
奥津宮
御祭神 多紀理毘売命
(たぎりひめのみこと)
邊津宮の田寸津比売命
(たぎつひめのみこと)
、中津宮の市寸島比売命
(いちきしまひめのみこと)
、当宮の多紀理毘売命
(たぎりひめのみこと)
の3女神は世に江島大神と称えられる。
江島神社の草創は島の南端のお岩屋であったが、度々の大波を避ける為この地にお社が創建され、当神社の本宮御旅所とも称された。役小角(奈良時代)、弘法(平安時代)、日蓮(鎌倉時代)の高僧が参籠祈願をこめて御神成を戴き、源頼朝公は奥州の藤原氏征伐祈願の為鳥居を寄進された(拝殿前)。
現社殿は天保13年(1842年)の御造営で、拝殿天井の八方睨の亀(酒井抱一画)は名高い。
当境内には岩屋洞窟を模した龍宮がお祀りされている。
八方睨みの亀の絵
江戸時代、享保3年(1803年)画家
酒井抱一
が描いた「正面向亀図」です。正面向きの亀を桐材に金箔を押し、力強い線で描かれ、もとは胡粉、緑青、丹色で彩色されていたのですが、現在は亀の甲3ヶ所に緑青が残り、また唇及び目の周辺に丹色がわずかに残っているだけです。原絵は海風の侵害からまもるために、江島神社の宝殿に納められています。
いま奥津宮にかかげられているのは大正15年4月、東大資料編纂室長の浦永峯光氏が、酒井抱一の末流野沢提翠画家に模写されたものです。
酒井抱一(1772〜1840年)は江戸時代の画家でもあります。その画技は特にすぐれ、尾形光琳派の総師としても広く知られていました。
酒井抱一がなぜここに亀絵を奉納したのかはわかりませんが、この絵が因縁となって、いま奥津宮の広場は亀寿の祝意が充満しています。
東京都台東区の出山寺にある
其角の句碑
に酒井抱一の句が刻まれている。
伝頼朝寄進の鳥居
鎌倉幕府を開いた
頼朝
は、政治の方策としての信仰を大きく取り上げ、各地に寺社伽藍を創建したが、その一つとして江島神社にも数度にわたって参詣参籠し、そのつど信仰上の対象を寄進しています。
吾妻鏡によれば「頼朝は養和2年(1185年)奥州
平泉
の藤原秀衡を調伏するため、京都高尾神護寺の文覚上人に命じて弁財天を岩屋に勧請し、参詣の際には鳥居を寄進しました」とあります。
現在の鳥居は平成16年(2004年)の台風で破損し、補修されたものですが、源頼朝寄進の鳥居は、これに似たものが建てられたと伝えられています(設置の場所も形も特定できません)。
4月5日 乙巳
これ高尾の文覺上人、武衛の御願を祈らんが為、大弁才天をこの島に勧請し奉る。供養法を始行するの間、故に以て監臨せしめ給ふ。密かにこの事を議す。鎮守府将軍藤原秀衡を調伏せんが為なりと。今日即ち鳥居を立てらる。
『吾妻鏡』(養和2年)
江島神社中津宮
へ。
私の旅日記
〜
2008年
〜に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください