このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
新年の旅日記
坂本龍馬
〜「坂本龍馬先生誕生地」の碑〜
高知市上町1丁目の国道32号沿いに上町病院がある。
上町病院前に「坂本龍馬先生誕生地」の碑があった。
昭和27年(1952年)5月、建立。内閣総理大臣吉田茂書。
坂本龍馬
(1835—1867)
郷士坂本八平の次男。実名直柔。天保6年11月15日出生。江戸に出て千葉定吉に師事。北辰一刀流の目録を受ける。時勢に感じ
武市瑞山
の土佐勤王党に加盟。文久2年3月24日脱藩。勝海舟門下生となり、神戸海軍塾の塾頭を務める。その他長崎に海援隊を組織し中岡慎太郎とともに薩長連合を実現。後藤象二郎と協力し大政奉還運動を推進し目的を達する。彼の政治改革案「船中八策」は新日本の行く手を示す基案となった。慶応3年11月15日京都の宿舎近江屋で反対勢力の襲撃にあい同志中岡慎太郎とともに斬られる。33才。
昭和43年(1968年)、「明治百年記念」に復元。
歴史の道 史跡案内−8
坂本龍馬誕生地
坂本龍馬は天保6年(1835年)に生まれ、12、3歳の頃までは自然児の時代であって、近くの鏡川で水泳をしたり、坂本山のある柴巻でうさぎ追いなどに夢中になっていました。14歳になって築屋敷にあった小栗流・日根野道場に通い始め、周囲も驚くほど熱心に修行しました。19歳の春、江戸の出て北辰一刀流・千葉定吉道場で修行し、父親の厳しさと乙女姉さんの愛情に包まれて、たくましく、やさしさを一身にそなえた青年龍馬に成長しました。また、江戸では佐久間象山・土佐では徳弘董斎に洋式砲術を学んだり、
中浜万次郎
の漂流体験を聞き取った河田小龍を訪ねて世界の情報と日本の現状、通商航海の必要性を聞かされ、大いに啓発されています。
龍馬は土佐勤王党に参加したものの、いち早く観念的な尊王攘夷論から脱却していました。28歳の時に脱藩したのち勝海舟の弟子となり、神戸の海運塾の塾頭を務めました。のち、長崎で日本最初の近代的商社といわれる亀山社中をつくり、
中岡慎太郎
等と協力して薩長同盟の成立に尽力しました。さらに、土佐藩の参政・後藤象二郎と提携して、志をもつ青年たちを集めた海援隊を率いて活動し、大政奉還建白への道を開く「船中八策」を発表して、近代日本のあるべき方向を説いています。
幕末のまだ閉鎖的な日本人が多いなかで、龍馬の行動ぶりは型破りのスケールの大きさを感じさせるものがあました。下関に寓居を移して自然堂という雅号をつけているように、自然体で次から次へと維新の大事業をなしとげ、慶応3年(1867年)11月15日、京都の宿舎近江屋で、反対勢力の襲撃にあい、同志中岡慎太郎ととに斬られる。わずか33歳でその生涯を終えたのでした。
作家
司馬遼太郎
は龍馬の行動について維新の奇蹟としか言いようがないと述べており、現代でも龍馬は永遠の青年のシンボルとして生き続けています。
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