このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

虚子の句碑

霧いかに深くとも嵐強くとも



三浦半島の観音埼に観音埼灯台がある。


 慶応2年(1866年)、江戸幕府がイギリス、フランス、オランダ及びアメリカの4か国と締結した江戸条約で建設が決められた観音埼、剱埼、 野島埼潮岬 、伊王島及び佐多岬各灯台の8灯台のうち一つ。

観音埼灯台


明治2年(1869年)、ヴェルニー設置。日本初の洋式灯台である。

2番目は野島埼灯台。

観音埼灯台に高浜虚子 の句碑があった。



霧いかに深くとも嵐強くとも   虚子

 昭和23年秋、高浜虚子翁が観音埼を訪れ、緑の岬角に屹然と立つ白亜の勇姿と灯台に勤める職員が困難とたたかう姿を詠まれたといいます。この年海上保安庁が創設され、灯台80周年記念式典が挙行された年でもありました。

昭和23年(1948年)10月4日、高浜虚子は剣崎燈台へ吟行した。

霧如何に濃ゆくとも嵐強くとも

我国燈台八十年記念で燈台守に贈る句を作るため、大久保橙青海上保安庁長官、橋本燈台局長に案内されて剣崎燈台へ吟行した。美しく晴れた秋空は高く澄み、茫々と芒が生ひ茂つてゐる中に燈台守の家があつた。

『虚子一日一句』(星野立子編)

高浜虚子の句碑の隣にもう一つ句碑があった。


汽笛吹けば霧笛答える別れかな   橙青

橙青は海上保安庁の初代長官大久保武雄。

昭和10年(1935年)3月3日、 与謝野晶子・鉄幹 夫妻は観音埼に遊ぶ。

句 碑


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