このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
〜
2013年
〜
東福寺
〜通天橋〜
京都市東山区本町に
東福寺
(HP)がある。
恵日山と号し、
臨済宗
東福寺派の大本山である。藤原道家が嘉禎2年(1236年)東大寺、
興福寺
と並ぶ大寺の建立を発願して東福寺と名付け、禅僧円爾弁円(聖一国師)を開山に招いて、建長7年(1256年)完成した。その後火災を受けたが、室町初期に道家の計画通りに再建され、京都五山の一つとして栄え、多くの伽藍、塔頭が建ち並び、兵火を受けることもなく明治に至った。明治14年(1881年)に惜しくも仏殿、法堂など中心部を焼失したが、今なお堂々たる中世禅宗の寺観を保っている。
三門(国宝)は室町初期の作、禅宗三門として最古の遺構である。禅堂(禅僧の座禅所)、東司(便所)、浴室も室町時代の建物(重要文化財)でいずれも禅宗建築の重要な遺構である。本堂、方丈は近時の再建で、開山堂に至る渓谷には多くの紅葉があって通天橋が架かり、また偃月橋、臥雲橋が架けられて紅葉の名所をなしている。
京都市
通天橋・開山堂の拝観料は400円。
通天橋
明和8年(1771年)、
加舎白雄
は通天橋の紅葉を見ている。
通天橋紅葉見に参て、
くらべこしふたつの橋の夕もみぢ
『春秋菴白雄居士記行』
寛政3年(1791年)、
森々庵松後
は伊勢に向かう途上、東福寺を訪れている。
東福寺通天橋
通天や紅葉にかゝる冬の虹
『杖のはじめ』
享和元年(1801年)3月10日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で東福寺を訪れ通天橋のことを書いている。
名におふ通天橋は桁行十二間二尺、梁一間五尺、深き谷にかゝり、額は普明禪師の筆なりとぞ。橋のほとりに莚しきて、香煎うるものあり。しばらく憩ひてむかひの橋を見れば、臥雲橋なり。
『改元紀行』
享和2年(1802年)3月22日、大坂銅座詰の任を終え江戸へ帰る旅で東福寺を訪れている。
稲荷の社にぬかづきて東福寺にいれば、今年開帳ありて、五大堂・開山塔・客殿・伝衣閣・ 方丈・法堂・仏殿・山門ことごとく、もろもろの宝物をかゝげて人々に拝せしむ。まだ朝のほどなれば、まいり来る人もまれなり。
『壬戌紀行』
通天橋の先に芭蕉の句碑があった。
古池や蛙とびこむ水の音
出典は『蛙合』(仙化編)。
貞亨3年(1686年)春、
深川芭蕉庵
で詠まれた句。
明治26年(1893年)11月19日、芭蕉の二百回忌に不識庵聽秋建立。
通天橋を見上げる。
開山堂
弘安3年(1280年)10月17日、円爾弁円は79歳で入寂。賜号は聖一国師。10月17日は開山忌である。
元禄9年(1696年)、北枝は開山忌に東福寺を訪れている。
開山忌の日通天橋にのそむ
もみち葉よ忌日の後にま一日
『喪の名残』
東福寺の塔頭に天徳院がある。
天徳院の庭に
荻原井泉水の句碑
がある。
石のしたしさよしぐれけり
大正12年(1923年)、関東大震災で
井泉水
は妻を失い、翌年、母を亡くして、京都に来た。
大震災が“私”に加えたものは直撃ではなかった。私の家は焼かれもせず、家族も無事だった。だが、その後二カ月にして、私の妻が俄かに斃れた。かねてから入院して大手術を要することは分かっていたが、大手術のできる大きな病院はおおむね焼かれていた。荏苒(じんぜん)としているうちにある朝急変は起こった。手の施しようはなくその夕にはもうこの世のものではなかった。宿命でもあったろうが、もし大震災がなければ命は助かったのであろうと考えるのも愚痴であろうか。私の母は二年ごし、中風のために床についていた。不治の病気とは分かっているものの、引きつづいての露営のために看護は行きとどかず、その後、家のうちに戻ってからも災後の不自由のために療養は十全を尽すことができなかった。母は年を明けてから亡くなった。
『此の道六十年』(劫火)
私の旅日記
〜
2013年
〜に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください