このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2012年

「くれは水辺公園」〜【夏の広場】〜
indexにもどる

 伊賀市平野西町の矢谷川沿いに「くれは水辺公園」があって、川沿いの散策路には16基の芭蕉句碑があるというので、行ってみた。


平成14年(2002年)、「くれは水辺公園」開園。

【夏の広場】



ひばり鳴くなかの拍子や雉子の声

 元禄3年(1690年)、芭蕉47歳の作。季語「ひばり」で春。 『猿蓑』 (去来・凡兆共編)等に所収。芭蕉の親友山口素堂の「春風に見失ふまでは雲雀かな」に唱和した句。「拍子」は能楽などで合間などに掛け声ように奏する合の手。雉子の鋭い声を能楽で掛け声と共に鼓・笛などを打ち込むのに比している。土芳の 『三冊子』 に「この句、雲雀の鳴きつゞけたる中に、雉子の折々鳴き入る気色をいひて、のどかなる味を取らんと、色々して、これに究(きはま)る。」とあり、雲雀の声の中に入ってくる雉子の声を拍子と見立てるだけでなく、「長閑なる味を取らん」としていることが、句の眼目である。

 句意は、「雲雀が無心に囀り続けている。その鳴き声の合間に、時折、ケンケンと鳴く雉子の鋭い声が入り、まるで能楽の中の拍子のような感じだ。のどかな春を感じさせる。」



はつ真瓜たてにやわらん輪にやせむ

 元禄2年(1689年)芭蕉47歳の作。季語は「真桑瓜」で夏。『曽良随行日記』に「(六月)二十三日 近江ヤ三良兵へへ被招。夜ニ入、即興ノ発句有」とある。『奥のほそ道』の旅で、酒田の船問屋近江三郎兵衛(号 玉志 )亭に招かれ詠んだ即興吟。そのとき芭蕉が認めた真蹟懐紙に、中7・下5を「四にや断ン輪に切ン」とする。句形について『浮世の北』(可吟編)の「四ツにやわらん輪にやせむ」をはじめ、異形が多種伝わるが何れも疑わしい。この句碑の句形は、 『芭蕉句選』 (華雀編)の「はつ眞桑たてにやわらん輪にやせん」からの選句であろうが、「初」の語に賞美の心があり、初物の真桑瓜を縦に切ろうか、輪切りにしようか、と興じている芭蕉の姿が浮かんでくるようである。主人玉志への挨拶心を込めている。

 句意は、「おいしそうな初物の真桑瓜のご馳走が出たが、さてこれをを縦に割ろうか、それとも輪切りにて食べようか。



老の名のありともしらて四十雀

『初蝉』 (風国編)に収録。

 元禄6年(1693年)、芭蕉50歳の作。季語は「四十雀」で秋。同年10月9日付許六宛芭蕉書簡には、句の前後に「保生佐太夫三吟に」「少将の尼の歌余情候。と付記する。「保生佐太夫」は江戸の門人服部沾圃の能役者としての名。句は沾圃亭における三吟連句の発句で鎌倉時代初期の女流歌人中宮少将の「己がねにつらき別はありとだに思も知らで鳥や鳴くらむ」(『新勅撰集』)の歌の余情をふまえる。四十雀は雀ぐらいの小鳥で、動作は軽快で声が澄みとおり、秋の末頃、群をなして人家の近くに来る。自分の呼び名が老いと関りがあるとも知らないで、軽快に飛び回っている姿に興を発し、初老といわれる四十に掛けた発想の軽い句。

 句意は、「四十という初老の名のあることも知らぬげに、四十雀は生き生きと軽快に飛び回り楽しそうに囀っている。」

 【夏の広場】周辺には、もうひとつ「杜若にたりやにたり水の影」の句碑があったようだが、見落とした。

後日、あらためて写真を撮りに行った。



杜若にたりやにたり水の影

出典は『続山の井』。

寛文6年(1666年)芭蕉23歳の作。

季語「杜若」で夏。芭蕉が宗房と号していた青年期の作。謡曲「杜若」の「似たりや似たり杜若花菖蒲」の詞を取り入れているところが新趣向。本歌をもじることは寛文初年期から誹諧の世界で大流行、その流行を懸命に追いかけていた若き日の芭蕉の姿を句に見ることができる。

(句意)
清楚な杜若が美しく水辺にさいている。その花の影が水に映っているが、よくまあこれほど杜若の本物そっくりに似ているものだ。

【春の広場】 へ。

「私の旅日記」2012年 〜に戻る



このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください