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私の旅日記
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2010年
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大光寺
〜碓花坊也寥〜
柴田町船岡南に大光寺という寺がある。
妙高山大光寺
妙高山大光寺(
曹洞宗
)
大光寺は湖海仲珊和尚が15世紀中頃開山、一時廃絶した。これを雲州全利和尚が再興したが、その年代は不明。文政6年(1823年)火災により伽藍が焼失した。
柴田家の菩提寺で寛文事件の柴田外記も祀られている。
本堂裏にある五百羅漢はも明和年間(1774−1772)この地方に疾病が流行し、住民は大変苦しんでいた。これを救おうと、第十四世環中道一和尚が経文を唱えながら像を刻み、疾病平癒を祈願したところ、その功徳が現われ治まったと伝えられているものである。
環中道一和尚は、俳号を碓花坊也寥と称して広く知られていた。同郷の俳聖芭蕉を偲んで
名月や池をめぐりて終夜
の句碑を建立したもので、記念に連吟集『夜塚集』を刊行したと伝えられています。
柴田町教育委員会
碓花坊也寥
は芭蕉と同郷で伊賀上野の人である。
本堂前の植え込みに芭蕉の句碑があった。
名月や池をめくりて終夜
出典は
『あつめ句』
(貞享4年編)。
貞亨3年(1686年)8月15日、
芭蕉庵
で月見の宴を催した折の句。
芭蕉43歳の時である。
明和5年(1768年)8月、碓花坊也寥 建立。
碓花坊也寥の妙高山大光寺入山7周年(あるいは鳥酔入門13周年もかねて)の建碑ということである。
本堂裏の五百羅漢
明和8年(1771年)6月11日、諸九尼は大光寺に也寥和尚を訪ねている。
十一日 舟岡の大光寺と申御寺に行。これは也寥和尚と聞えおはします大徳なり。手づから五百の羅漢の尊像をきざ
ミ
て、後の山に安置し給ふを結縁す。
『秋風記』
安永2年(1773年)、
加舎白雄
は「奥羽紀行」の旅の途上、大光寺に碓花坊也寥を訪れている。
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