このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
昔の旅日記
上高地
〜上高地温泉〜
中の湯温泉
からバスで上高地へ。
焼岳(標高2,455m)を望む。
大正10年(1921年)10月17日、
若山牧水
は上高地から焼岳を越えた。
わが伴へる老案内者に酒を与ふれば生来の好物なりとてよろこぶこと限りなし。
老人のよろこぶ顔はありがたし残りすくなきいのちをもちて
焼嶽頂上
上高地より焼嶽に登る、頂上は阿蘇浅間の如く巨大なる噴火口をなすならずして随所の岩蔭より煙を噴き出すなり。
群山のみねのとがりのまさびしく連なれるはてに富士の嶺見ゆ
登り来て此処ゆのぞめば汝がすむひんがしのかたに富士の嶺見ゆ
『山桜の歌』
昭和40年(1965年)5月、
山口誓子
は上高地を訪れている。
上高地
燒岳の燒に今年の草青む
『一隅』
大正池
快晴で、雲一つない。
大正池は大正4年(1915年)の焼岳の噴火により梓川がせきとめられてできた池。
高村光太郎
が長沼智恵子と上高地温泉で落ち合ったのは大正2年(1913年)8月。その頃、大正池は無かったわけである。
大正池から河童橋に向かう。
河童橋は
芥川龍之介
の小説『河童』の舞台である。
昭和2年(1927年)年3月、「改造」に小説『河童』を発表。7月24日、龍之介は35歳で自殺する。
龍之介の命日は「河童忌」
あちこちで野紺菊
(のこんぎく)
が咲いていた。
深山鳥兜
(みやまとりかぶと)
を見つけた。
梓川
焼岳が見える。
河童橋から明神池に向かう。
昭和6年(1931年)6月24日、
高浜虚子
は「上高地温泉ホテル」から下山。
火の山の裾に夏帽振る別れ
昭和六年六月二十四日 下山。とう等焼岳の麓まで送り来る。
『五百句』
水面に山が映っている。
岩魚
(いわな)
が泳いでいた。
昭和8年(1933年)の秋、
斎藤茂吉
は上高地を訪れた。
山みづにかくろひて住む岩魚をもここの泉に養ひにけり
『白桃』
晒菜升麻
(さらしなしょうま)
が咲いていた。
明神池は穂高神社の神域なので、拝観料(250円)が必要。
明神池は一之池と二之池の2つがある。知らなかった。
明神池二之池
紅葉はきれいなことだろう。
明神池は明神岳の崩落により梓川がせきとめられてできた池。
昭和11年(1936年)8月6日、
与謝野晶子
は上高地へ。翌7日、明神池を見学している。
梓川深山の柳絮たけなはに飛ぶ八月の穂高おろしに
燒岳のけぶりに比べ放つ絮の淡さも淡し奥山柳
明神の穂高の裾に絮
(わた)
を撒く柳原こそなまめかしけれ
『白桜集』
(中部山岳抄)
昭和30年(1955年)9月27日、
水原秋桜子
は上高地を訪れ雨の中を明神池に赴く。
上高地着。降りしきる雨を冒して明神池に赴く。
常澄める水の秋澄むなゝかまど
倒れ木をわたす樵路
(しようじ)
も水澄めり
明神池に筏をうかべて、岩魚を釣る漢あり
雨霧の蓑しろがねに岩魚釣
澄む水のしぶくや岩魚釣れきたる
『玄魚』
河童橋まで戻り、
上高地温泉
に向かう。
途中に猿がいた。
ピンボケの写真だが、猿の写真を撮るのは恐い。
「昔の旅日記」
に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください