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私の旅日記2005年

山田温泉〜碑巡り〜
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「藤井荘」 から山田温泉の歌碑や句碑を探して、歩いてみる。

山田温泉 共同浴場「大湯」 の前の広場に一茶の句碑がある。


春風に猿もおや子の湯治哉

文政5年(1822年)4月、一茶60歳の時の句。出典は『文政句帖』。

 一茶は高山村の豪農 久保田春耕 を訪れ、久保田家の離れ家に136日も逗留している。その折、山田温泉に遊んだ時の句。

句碑の裏には次のように書かれているそうだ。

文政5年(1822年)4月の作「文政句帖」より

 一茶が50才で郷里信州に帰り
たまたま高井野村紫(現高山村紫)の
門人、久保田春耕を訪ねた折、山田
温泉に遊んだ時の晩年の句である。

       平成2年11月建之
       山田温泉有志一同
       一茶記念館長

平成2年(1990年)11月に建立された比較的新しい句碑である。

 山田温泉大湯前に建つ。平成2年、有志によって建立。文政5年の句帳に「山田温泉にて、傷ついた親が子猿を従えて癒す物語を詠む」とある。猿湯は黒湯ともいわれ元湯付近に小屋掛けされていた。一茶はそこに湯浴びした。

高山村公民館報

 高山村の松川は強酸性の水であり、温泉の源泉が松川と合流した所が現在も黒く変色している。又、明治期松川渓谷には、元湯のほか、滝ノ湯・五色ノ湯・錦ノ湯・黒湯・七九里ノ湯・御公湯と6つの温泉があったそうだ。

共同浴場「大湯」の前には 種田山頭火の句碑 もあった。


つかれもなやみもあつい湯にずんぶり

 昭和11年(1936年)5月25日、山田温泉ではなく 万座温泉 で詠んだ句である。

山田温泉「風景館」には会津八一の歌碑があった。


山中高歌

かぎりなきみそらのはてを
ゆくゝもの
いかにかなしき
こゝろなるらむ

秋艸道人朔

秋艸道人は会津八一のこと。

 「山中高歌」は秋艸道人会津八一が大正10年夏山田温泉「風景館」に滞在した時の作品で、その自筆を彫刻したものだそうだ。

 山田温泉は、長野県豊野駅の東四里の渓間にあり、山色清潔にして、嶺上の白雲も以って餐ふべきものをおもはしむ。かつて憂患を懐きて此処に来り遊ぶこと5、6日にして帰れり。爾来、潭声の耳にあるを覚ゆ。

秋艸道人山中高歌より、昭和庚戌7月上浣関谷小四郎建之

「風景館」には 太田水穂 の歌碑もあった。


此のゆふべ外山をこゆる秋かぜに 椎もくぬぎも音たてにけり

大正11年(1922年)建立。その他、詳しいことは分からない。

山田温泉牛久保神社参道入口にも一茶の句碑がある。


梅が香よ湯の香のよさては三日の月

高山村教育委員会の解説が書いてあった。

 裏面には「湯本庄左衛門手題建之」、右側面には「明治27年11月」と書いてあるそうだ。

 明治27年建立というのは、一茶の句碑としては全国で約300余基あるうちの4番目に古いもので大変貴重なものです。丸山可秋編『一茶一代全集』で「山田温泉」という前書きがつけられています。湯本庄左衛門は俳号を乳山といい、地元の俳人です。

 この句碑はもともと萩久保の谷川橋から東へ10メートルの道端にあったのを昭和30年12月現在地に移したものです。

 なおこの句には類句があり、西原文虎宛書簡には

梅が香や湯の香や外に三ヶの月

 『七番日記』には

梅が香よ湯の香よ外に三ヶの月

 などがあります。

薬師堂の横に山頭火の句碑があった。


霧の底にて啼くは筒鳥

 昭和11年(1936年)5月25日、「万座峠」と題して次の句と共に詠まれたものである。

山路なつかしくバットもカラも
ふきのとうも咲いてほほけて断崖
ごろりと岩が道のまんなかに
こんなところに家がある子供がゐる犬がほえる(追加)


2年前 に来た時は雪に埋もれていて気付かなかった。

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