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私の旅日記
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2015年
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津山城跡
〜鶴山公園〜
津山市山下の鶴山公園に行ってみた。
津山城跡
(HP)である。
国指定史跡
津山城は、もと山城のあったこの鶴山の地に森忠政が慶長9年(1604年)に起工し、元和2年(1616年)の完成まで13年の歳月をかけて築いた輪郭式の平山城です。
往時には5層の天守閣がそびえていましたが、この天守閣は弓狭間・鉄砲狭間・石落し等の備えを持ち、唐破風・千鳥破風等の装飾のない実戦的なものでした。また、本丸・二の丸・三の丸には、備中櫓をはじめ粟積櫓・月見櫓等数多くの櫓が立ち並び、本丸には70余の部屋からなる御殿と庭園がありました。
この城が築かれた当時は、我が国の築城技術が最盛期を迎えた時期にあたり、津山城の縄張りの巧妙さは攻守両面において非常に優れたもので、近世平山城の典型とされています。
明治6年(1873年)廃城令によって城郭は公売され、翌7年から8年にかけて天守閣をはじめとする一切の建物が取り壊されましたが、豪壮堅固な石垣は残りました。
その後、明治33年(1900年)城跡は鶴山公園として津山町の管理となり、昭和38年に国の史跡に指定されました。
森忠政公
森忠政
1570〜1634
幼名を千丸。元亀元年、美濃(岐阜県)金山城に生まれる。京都本能寺の変で織田信長を守護し、悲運の最期を遂げた森蘭丸の弟。天正12年(1584年)兄長可の戦死後家督を継ぎ、豊臣秀吉に仕えて金山7万石を与えられる。のち徳川家康に仕え、慶長5年(1600年)信濃(長野県)川中島13万7500石を領す。同8年美作国一円18万6500石を与えられ津山に入封。翌9年より津山城の築城に着手、また城下の街づくりを始め、現在の津山の基をなした。寛永11年(1634年)三代将軍家光に随伴して津山より上京するが、食傷により急死す。享年65歳。なお、この像は津山市小田中、森家の菩提寺本源寺にある木像を基としたものである。
津山城の石垣
昭和8年(1933年)7月2日、
与謝野寛・晶子
夫妻は津山城を訪れている。
すずしけれ津山の城の廓より見る王朝の久米の佐良山
山國の津山のしろの石垣に見出づることよはつ秋の白
岡山の城下へ到る二十里のみちの端見ゆ川のほとりに
「山のしづく」
芭蕉の句碑があった。
鐘つかぬ里は何をか春のくれ
出典は
『俳諧書留』
。
元禄2年(1689年)3月29日(新暦5月18日)、『奥の細道』の旅の途上
室の八嶋
で詠まれた句。
『芭蕉句選拾遺』
には「
膳所へ行く人にとあり。
」と前書きがある。
尾上柴舟の歌碑
生ぬくきにほひみたせて山さくら咲ききはめれは雨よふらしも
昭和29年(1954年)11月文化の日文學博士尾上八郎先生歌碑建設期成會建立。
尾上柴舟先生略歴
明治9年8月20日、津山市田町津山町北郷家に生る。本名八郎。
23年3月、鶴山高等小学校卒業。直頼高に師事して、和歌の手ほどきを受く。
25年、上京初め大口鯛二ついで
落合直文
の門に入り短歌を学ぶ。この年尾上家に入る。
34年4月、東京帝国大学文科国文科卒業。
大正12年、文学博士となり、東京女高師・学習院教授を歴任。これより前23歳にして短歌結社「いかづち会」を起し、明星派全盛期に対抗して反明星の炬火を掲ぐ。ついで「車前草社」を創立。門下から
若山牧水
・前田夕暮等、幾多の俊秀歌人が輩出した。
大正3年、「水甕」を刊行、これを主宰した。
終戦後は毎年宮中詠進歌の選者を務めた。
一方、草仮名の名手として現代書道界の第一人者であり、昭和12年芸術院会員に推され日展書道部審査員となった。
叙景詩日記の端より、朝ぐもり・間歩集・ひとつの火・古今と新古今・平安朝時代の草仮名の研究等、歌集著書手本の類は枚挙に遑がない。
昭和30年4月1日尾上柴舟先生歌碑建設期成会 河井黄揚撰
備中櫓を見上げる。
備中櫓
備中櫓は本丸御殿の南西隅に位置し、その名は
鳥取城
主池田備中守長幸に由来すると伝えられる。森藩時代の基本的な資料である『森家先代実録』には「備中櫓 池田備中守長幸入来之節出来」とある。森忠政の長女於松を池田備中守長幸に嫁がせており、長幸は忠政の娘婿にあたる。その長幸が津山城を訪れるのを機に完成したのが備中櫓であったと考えられている。備中櫓跡の発掘調査で池田家の揚羽蝶紋の瓦が出土したことも、この建物が池田家と深い関係にあったことを物語っている。
切手門
切手門は、二の丸から本丸表鉄門へ至る間の通路を仕切る大型の「櫓門」です。
昭和31年(1956年)8月、
山口誓子
は天狼中國大會で津山を訪れた。
津 山
蝉の城深井の底をわあと呼ぶ
『方位』
切手門から備中櫓を望む。
表鉄門
表鉄門は、本丸への入口にある櫓門で、門扉全体が鉄板で覆われていたことからこの名前がついています。
天守台
津山城の天守は、地上5階建てで、最上階以外に破風を持たない質実な造りでした。高さは石垣を除いて約22mで、一般的な5層の天守としては最大規模のものです。形は、天守台の平面が正確な四角形で、上階が規則的に小さくなっていく「層塔型」と呼ばれるものです。
天守をはじめ城内の建物は明治7年から8年(1874〜75)にかけて取り壊され、石垣を残すのみとなりましたが、その後昭和11年(1936年)に開催された「産業振興大博覧会」の呼び物として、本来の3分の2の天守が建てられました。「張りぼて」の愛称で親しまれましたが、空襲の目標になるという理由から、昭和20年8月に取り壊されました。
津山城は
日本100名城
No.67である。
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