このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2015年
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中津城
〜奥平家〜
中津市二ノ丁本丸に中津城公園がある。
中津城公園に「獨立自尊」の碑があった。
明治37年(1904年)7月8日、福澤諭吉の偉業を称え、建立。
中津市留守居町に
福澤諭吉宅跡
がある。
天正15年(1587年)7月3日、黒田孝高は豊前国6郡12万3千石の領主となる。
天正16年(1588年)、孝高は中津城の築城を始める。
天正17年(1589年)、孝高は家督を長政に譲って隠居し、「如水軒」と号した。
慶長5年(1600年)11月、黒田長政は
関ヶ原の戦い
の戦功により筑前52万石に加増、
福岡
に移る。
慶長5年(1600年)12月、細川忠興が豊前国と豊後国2郡32万石の領主として中津城に入る。
慶長7年(1602年)、忠興は
小倉城
、忠利は中津城を居城とする。
元和6年(1620年)、忠興は忠利に家督を譲って、中津城に隠居。
寛永9年(1632年)10月、細川忠利は豊前小倉藩40万石から肥後熊本藩54万石の領主として
熊本城
に加増移封。
中津城天守閣
旧中津藩主 奥平家
奥平家が歴史の表舞台に登場したのは、奥平家初代貞能と貞昌(後の信昌)父子の頃からで、天正3年(1575年)5月の史上名高い「長篠の戦い」において貞能・貞昌父子が活躍しました。
武田勝頼軍1万5千人によって長篠城が包囲され、長篠城主貞昌は僅か500人で籠城、激しい攻撃に耐え続けました。落城寸前に織田信長・徳川家康連合の援軍が到着、長篠城の西方約3キロの設楽原で、織田・徳川連合軍と武田軍が激突、武田軍は織田・徳川連合軍が築いた馬防柵や大量の鉄砲の前に大敗北しました。この長篠城籠城の功で貞昌には新たな領地が与えられたほか、信長からは「信」の1字が偏諱
(へんき)
され名を信昌と改め、家康の長女亀姫を正室として迎えました。
信昌と亀姫の間には家康にとって孫となる4男1女が生まれ、長男家昌は奥平家を継ぎ、二男から四男は松平の姓を賜りました。四男の松平忠明は
大坂城
や姫路城の城主を務めています。
奥平家は長篠の戦いの後、新城城(愛知県)、加納城(岐阜県)、
宇都宮城
(栃木県)、宮津城(京都府)などを経て、享保2年(1717年)奥平家第七代昌成が中津10万石の領主として中津城に入りました。第十五代昌邁
(まさゆき)
までの155年間にわたり中津を治め、明治維新・廃藩置県を迎えました。その間、第九代昌鹿、第十一代昌高などは、蘭学史上特筆すべき功績をあげています。
当地の奥平神社では、長篠城籠城中に食料がなくなり「たにし」などを食べて戦い続けたことにちなみ、毎年5月21日頃に「たにし祭」を行っています。
現在、中津城天守閣内は資料館として「長篠合戦図」、家康から贈られた「白鳥鞘の鑓」や「歴代藩主の甲冑」など、重宝が展示・公開されています。
中 津 市 観 光 課
中津市歴史民俗資料館
中津の郷土史を語る会
模擬天守と復興櫓
昭和39年(1964年)、建造。
天気も良くて暖かく、人も多かった。
中津城公園の
中津大神宮
に芭蕉の句碑がある。
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