このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2015年

柞原八幡宮〜火王宮〜
indexにもどる

大分市浜の市に柞原(ゆすはら)八幡宮がある。


柞原八幡宮


柞原八幡宮 の仮宮(お旅所)である。

柞原八幡宮の左手に火王宮がある。


明治4年(1871年)、火王神社(宮)を村社、興玉神社。

昭和32年(1957年)、興玉神社を火王宮に改める。

当社の草創について

豊府雑志は由原八幡宮影向ノ後、宮師金亀和尚、当社放生会ノ地アラン事ヲ求ム。爾後、承和四年八月十四日ノ夜、当浦ニ火石海中ヨリ流出シテ、炎光ヲ放ツ。里民皆恐レ、怪ム。和尚下山シテ是ヲ拝シ、此地ヲ以テ、放生会ノ斎場タラン事ヲ祀誓シ玉フ。其夜ノ夢ニ、一人ノ老翁来テ告テ曰、吾ハ武内大臣也、此地ニ於テ、毎年放生会ヲ執行スベシ。又、火石ヲ神体トシテ此地ニ祀リ奉ルベシト。是即チ由布同体異所ノ神霊ニシテ、八幡菩薩ノ権化タルヲ以テ、火王大権現ト号スト云云。

玉垣の中に「桜塚」があった。


木の母とに志る裳な満寸毛佐久ら哉

『ひさご』(珍碩編)冒頭の句である。

元禄3年(1690年)3月2日、伊賀上野風麦亭の歌仙の発句。

明治19年(1886年)、清風舎乙人建立。

乙人は三塚清三、京町で代々呉服屋を営んできた資産家だそうだ。

 明治17年(1884年)、カンタン港(大分港)完成。三塚清三は築港会所の頭取。

 明治21年(1888年)夏、乙人はカンタン港完成を祝って芭蕉の句碑を建立。

春も漸けしきととのふ月とむめ

平成19年(2007年)春、水江太一は芭蕉の句碑を 柞原八幡宮 に奉納。

「菫塚」もあった。


山路来てなにやらゆかしすみ禮艸

出典は 『野ざらし紀行』

 貞享2年(1685年)、京都から大津に至る山路を越えて行く時に詠んだ句とされる。

明治22年(1889年)冬、三塚滿之建立。

碑陰に乙人の句が刻まれている。

此みちや桜うゆるを春仕事

蓼太の句碑もあった。


月を出て月に野やまの入夜かな

大島蓼太 は雪中庵三世。

天明7年(1787年)9月7日、70歳で没。

 碑陰に「万歳千秋朽さるものは月か句か又石歟よつて我しるよしにとらむ 太乙楼不騫」と記してあるそうだ。

天明7年(1787年)、不騫建立。

 不騫は豊後府内藩六代主松平近儔(ちかとも)。雪中庵三世蓼太の門人。太乙楼。

天保11年(1840年)2月16日、死去。享年87。

墓所は小石川の 伝通院

不騫の句碑もあったようだが、よく読めない。

私の旅日記2015年 〜に戻る



このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください