このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2015年
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「虹の松原」
〜山頭火の句碑〜
唐津市の佐賀県道347号虹の松原線沿いに長さ約5Kmにわたって「虹の松原」が広がる。
三保の松原(静岡県静岡市)、
気比松原
(福井県敦賀市)とともに三大松原といわれる。
「虹の松原」
明治40年(1907年)8月14日、
与謝野寛
、
北原白秋
、木下杢太郎、吉井勇、平野万里の5人は、虹の松原を逍遥する。
下つて虹の松原を逍遥す、前後二里に亙る、日本無二の松原ださうだ、成程美しく大きい、時に日漸く低く海が紅く燃えた。海より来る風が一刷毛に松原を撫づれば、松は一様に陸の方に靡いたその形がわざとらしからず面白い。砂はもとより純白である。
「五足の靴」
(領巾振山)
明治43年(1910年)3月31日、河東碧梧桐は虹の松原を歩いた。
三月三十一日。半晴。
虹の松原をあるいて松露を掘った。太閤の睨み松も見て二軒茶屋に鉄道馬車の来るのを待っておると、床几の側へ、痩せた羽の汚れた鵞鳥が一羽寄って来た。ガーガーと喉をほって人に近寄って来る。
『続三千里』
「二軒茶屋」 前に山頭火の句碑があった。
松原の茶店はいいね。
薬罐からは湯気がふいてゐる。
娘さんは裁縫してゐる。
松風、波音…。
松に腰かけて松を觀る
平成元年(1989年)9月19日、松浦文化連盟建立。
『山頭火句碑集』(防府山頭火研究会)によれば、90番目の山頭火句碑である。
昭和7年1月19日午下り、
種田山頭火
は此の松原を歩く。揮毫は郷土の俳人・堤剣城(義輝)氏にお願いした。
20日、山頭火は
唐津市街
行乞。
昭和7年(1932年)4月11日、山頭火は再び松原を逍遙している。
四月十一日 晴后曇、行程六里、深江、久保屋(二五・上)
歩いてゐる、
領布
(マヽ)
振山
、虹ノ松原、松浦潟の風光は私にも写せさうである、それだけ美しすぎる。
松原逍遙、よかつた、道は八方さわりなし。
『行乞記(二)』
中島哀浪の歌碑もあった。
うすべにの貝がらひとつひき出しに悲しき海といつまでかある
中島哀浪は、
白秋
、
牧水
とともに九州三歌人とうたわれている佐賀市出身の歌人。その作風は中央の歌人にも負けないと高く評価されています。虹の松原をこよなく愛した哀浪は、いくどとなく松原を訪れ多くの歌を残しています。
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