このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
鏡山
〜碑巡り〜
唐津市の鏡山(標高284m)に上る。
明治40年(1907年)8月4日、与謝野寛、
北原白秋
、木下杢太郎、
吉井勇
、平野万里の5人は、
「二軒茶屋」
から領布振山に登る。
登りつめると池がある。頂きの端
(はづれ)
、老いたる松の唯一本
(ひともと)
立てる下に腰打ち下して四方を眺む、日はまだ高い、白い帆を下げた狭手彦の船が次第に遠ざかる、麾
(まね)
けども歸らぬ、女は聲を限りに『我が狭手彦』と呼ぶ、白い帆が微かに震ふ、女は領巾
(ひれ)
を外してひらひらと舞はした。緑の山に白い領巾が靡いてゐる。青い海に白い帆が走つてゐる。古への夢を今見て、一しほ趣が深い。
「五足の靴」
(領布振山)
駐車場に
高浜虚子の句碑
があった。
うき草の茎の長さや山の池
この句は昭和3年、虚子が、虹の松原で下車して鏡山(領布振山)に登った折に詠んだ句です。
昭和3年(1928年)10月8日、高浜虚子は領布振山に吟行。
萍の茎の長さや山の池
十月八日、松浦小夜姫の領布振山に吟行。禪寺洞、烏城等先導汽車
にて虹の松原に下車、それより領布振山にのぼる。頂上より虹の松
原、唐津を展望。山上の鏡ヶ池より稲荷神社の前にて遠く沖の島、
壹岐、對島、近き島々の中に神集島など指さる。
『五百句時代』
展望台に向かう途中に
大伴旅人の歌碑
があった。
遠つ人松浦佐用姫徒ま恋に領巾振里しより負へる山乃名
『万葉集』
(巻5)「領巾麾
(ひれふり)
の嶺
(ね)
を詠める歌一首」とある。
大伴旅人
奈良時代初期の貴族・歌人。『万葉集』には78首が撰ばれており、大伴家持や柿本人麻呂、山部赤人らと共に奈良時代を代表する歌人です。
松浦佐用姫
日本の三大悲恋物語といわれる松浦地方に伝わる伝説が、「松浦佐用姫」の物語です。古代、朝廷の命令で朝鮮半島の任那、百済の救援に派遣された青年武将大伴狭手彦は、停泊地である松浦の地で土地の長者の娘「佐用姫」と恋に落ちます。やがて、出帆の時が来て、別離の悲しみに耐えかねた佐用姫は鏡山に駆け登り、軍船にむかって身にまとっていた領巾を打振りました。それでも名残はつきず、佐用姫は山から飛び降り、呼子加部島まで追いすがったものの、すでに船の姿はなく、悲しみのあまり7日7晩泣き続け、ついに石に化したというものです。
この物語は、万葉の歌人たちにも数多く詠まれるものとなり、以後詩歌や能などの文学や演劇の題材にもなりました。
鏡山はこの故事から「領巾振山」と呼ばれるようになったといいます。
平成14年3月建立
贈 唐津レインボーライオンズクラブ
山上憶良の歌碑
行く船を振り留
(とど)
みかね如何ばかり恋しくありけむ松浦佐用姫
「最最
(いといと)
後の人が追ひて和
(なぞら)
ふる歌二首」の2首目。
青年武将・大伴狭手彦と、別離の悲しみに耐えかねた佐用姫は鏡山に駆け登り、軍船にむかって身にまとっていた領巾を打振りました。それでも名残はつきず、佐用姫は山から飛び降り、呼子加部島まで追いすがったものの、すでに船の姿はなく、悲しみのあまり7日7晩泣き続け、ついに石に化したといいます。
展望台
タカの撮影スポットとして知られるそうだ。
タカが渡り鳥とは知らなかった。
虹の松原
唐津城
が見える。
鏡山神社
へ。
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