このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2015年
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近松寺
〜碑巡り〜
唐津市西寺町に近松寺という寺がある。
近松寺は、旧唐津藩主小笠原家の菩提寺。庭園は曽呂利新左ヱ門の作で一名舞鶴園ともいい織部燈籠別名キリシタン燈籠が3基あります。
山門は名護屋城の資材を移したと云われ、文豪近松門左ヱ門の墓があります。
唐津市
切木
(きりご)
ボタン園
まだ4月の中旬なのに花が大方終っていた。
切木ボタン園に
芭蕉の句碑
があった。
春もやゝけしきとゝのふ月と梅
出典は
『薦獅子集』
(巴水編)。
元禄6年(1693年)1月20日、
深川芭蕉庵
から大垣の
木因
に宛てた書簡にある。
大正5年(1916年)8月、松江社建立。
瑞鳳山近松寺
臨済宗
南禅寺派の寺である。
明治40年(1907年)8月13日、与謝野寛、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里の5人は、近松寺を出て虹の松原に向かう。
唐津近松寺を出でて鉄道馬車に乗る。正面を見て来た来たといふと中途で馬を外した。何事ならむと思へば遙か向ふの方から煙を吐いて来るものがある。今機関車が来るのださうだ。紫の烟をばつばつと断続的に吐きながらがたびしやとやツて来たのを見るとべらべらの鉄の函だ、極くプリミチーヴな玩具の様な石油機関車である。
「五足の靴」
(領巾振山)
本殿の左手に
山頭火の句碑
があった。
空へ山へまかはんにやはみたら心経
昭和7年(1932年)1月19日、山頭火は
虹の松原
を散歩、浜崎町の栄屋に泊まる。20日、唐津市街行乞。
一月廿日 曇、唐津市街行乞、宿は同前。
九時過ぎから三時頃まで行乞、今日の行乞は気分も所得もよかつた、しみじみ仏陀の慈蔭を思ふ。
こゝの名物の一つとして松露饅頭といふのがある、名物にうまいものなしといふが、うまさうに見える(食べないから)、そしてその本家とか元祖とかいふのが方々にある。
小鰯を買つて一杯やつた、文字通り一杯だけ、昨夜の今夜だから。
・けふのおひるは水ばかり
・山へ空へ摩訶般若波羅密多心経
『行乞記(二)』
昭和57年(1982年)5月8日、建立。
大山澄太
揮毫。
『山頭火句碑集』(防府山頭火研究会)によれば、36番目の山頭火句碑である。
近松門左衛門の墓
門左衛門が少年の頃、近松寺の四代遠室禅師について、得度(出家)の後、京師(京都)に至り姓名を近松門左衛門と改め、浄瑠璃作家となり、享保9年(1724年)11月浪華で死去し、遺言によって近松寺の墓地に埋葬しています。
唐津市
名護屋城中より移設されたと伝えられている「太閤馬盥」があった。
舞鶴園
曽呂利新左ヱ門の築庭と称せられ、正面の築山は満島山(現在の舞鶴公園)を写し、左側数本の松は虹の松原を形とり、右側は現在の西の浜を模し、全面の白砂は海面になぞられ、全体を総して唐津湾頭の風景を模写した図案的な築庭であります。
唐津市
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