このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

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種田山頭火の句碑

一歩づつあらはれてくる朝の山

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昭和8年(1933年)9月15日、種田山頭火は広島の 大山澄太 の家を訪ねた。

五時広島駅着、地下道をのぼつて出札口に近づくと、大山さんのニコニコ顔が待つてゐた、うれしかつた、連れて澄太居へ。——

澄太居は予想通りで、市にあつて市を離れたところに澄太らしいところがある、葉鶏頭がたくさんあつて、とてもうつくしい。

明るい家、明るい気分。

『行乞記(広島・尾道)』

広島市安芸区上瀬野の国道2号(山陽道)に「一貫田」交差点がある。

広島県道174号瀬野呉線(熊野跡路)に入ると、旧山陽道に道標がある。



左、熊野跡村呉   右、海田市廣島

方面

「海田市廣島方面」に行くと、種田山頭火の句碑があった。


一歩づつあらはれてくる朝の山

俳人種田山頭火と瀬野

山頭火は俳友大山澄太の広島市の家に数日逗留後、小雨のふるなかを出立した。
昭和8年(1933年)9月19日である。この旅にも日記と俳句を残している。

私は東へ急いだ、十時から十二時まで海田市町行乞、(中略)

午後は雨、合羽を着て歩いた、横しぶきには困った、二時半瀬野着、恰好な宿がないので、さらに半里ばかり歩いて、一貫田といふ片田舎に泊った。宿は本業が豆腐屋、アルコールなしのヤツコが味へる。……

 今日の行程は五里。
 所得は(銭三十銭、米四合)
 御馳走は(豆腐汁、素麺汁)  二五 中ノ上

前が魚屋だからアラがダシ、豆腐はお手のもの。
早くから寝た、どしゃぶりの音も夢うつゝ。

  ・朝がひろがる豆腐屋のラツパがあちらでもこちらでも

   (中略)

  ・一歩づつあらはれてくる朝の山

   (後略)

 九月二十日

曇、また降るだろう、彼岸入り、よい雨の瀬音。
歩いているうちに、はたして降りだした、しようことなしに八本松は雨中行乞、(中略)

二時近くなって西条着。(中略)

 今晩の御馳走(きうりなます、にざかな、いも)
 昼飯はぬき

  ・まことお彼岸入りの彼岸花

   (後略)

 本名は種田正一。明治15年(1882年)現在の防府市の大地主の家に生まれた。11歳の時、母が自殺。大正5年、種田家は破産。山頭火は妻子を連れて熊本に移住、3年後に離婚。大正13年末、酒に酔って進行中の路面電車に仁王立ち、市内の禅寺 報恩寺 住職に助けられた。これを機に禅門に入り、出家得度。俳句は明治44年、自由律俳誌『層雲』に寄稿して 荻原井泉水 の門下となる。雲水姿で旅して句をつくり続けた。昭和7年、小郡町に 「其中庵」 を結庵したが、再びさすらい、昭和14年(1939年)松山市に 「一草庵」 を結庵。翌年、生涯を閉じた。享年57。

 平成15年9月、山頭火が泊まった家(久保田邸)の敷地内に、山頭火句碑を建立。

瀬野川流域郷土史懇話会
協賛 瀬野・中野地区青少年育成簡保団体
平成23年9月改訂

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