このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2012年
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近江神宮
〜碑巡り〜
大津市神宮町に近江神宮 (HP)がある。
二の鳥居
高市黒人の歌碑があった。
楽浪乃国都美神乃浦佐備而荒有京見者悲毛
(さざなみのくにつみかみのうらさびてあれたるみやこみればかなしも)
『万葉集』(巻1−23)
高市黒人が近江の旧跡をおとずれたのは、「壬申の乱」(672年)のあと20数年を経た頃であろうか。荒都と化したこの大津の宮址ににたたずみ、かつて都として栄えた5年間に想いを馳せて詠んだ歌である。
平成20年(2008年)、淡海万葉の会建立。藤井五郎書。
朱塗りの楼門
外拝殿
内拝殿
社殿は
登録有形文化財
。
御祭神は天命開別大神
(あめみことひらかすわけのおおかみ)
。
第38代天智天皇のことである。
昭和15年(1940年)11月7日、近江大津宮跡に御鎮座。
昭和28年(1953年)10月12日、高浜虚子は近江神宮で俳句会。
するまゝにまかしおきくれ野菊濃し
十月十二日。
唐崎
を横切り近江神宮にて俳句會。宮司平田貫一夫妻
に面會。この夜大津紅葉館泊り。
『七百五十句時代』
神座殿の傍らに芭蕉の句碑があった。
から崎の松は花より朧にて
出典は
『野ざらし紀行』
。
貞亨2年(1685年)、芭蕉42歳の句。
昭和32年(1957年)、句誌『正風』100号記念に建立。
高さ285cm、幅125cm、厚さ60cmという。
県内では長浜市の
慶雲館
に次いで大きな芭蕉句碑であろう。
山口誓子
は近江神宮に芭蕉の句碑を訪ねた。
湖岸の国道を琵琶湖ホテルのところまで下りて来て、そこから右へ折れて突き当ると、近江神宮である。境内に入ってあてずっぽうに右の方へ走っているとき、高みの茂みの中に句碑を素早く見つけた。
登ってよく見ると、白っぽい御影石で、部厚く、大き過ぎるほど大きい。
から崎の松は花より朧にて
本福寺蔵版「千那」はこの句を大津東今颪町の本福寺別院の作とする。千那宛ての手紙に、芭蕉は、この句を「其元にての句」と云っているからである。千那は堅田の本福寺を継ぐまではその別院にいた。貞亨二年、京から来た芭蕉を千那はそこで迎えたのだ。その町は浜大津の山手、そこからは唐崎が真北に見渡される。
(中略)
昭和三十二年の建立。
この句碑にとって近江神宮はゆかりの地ではない。しかしこの句碑は大津市内のどこかになければならぬのだ。
『句碑をたずねて』
(近江路)
社務所に天智天皇御製の歌碑があった。
秋の田の刈穂の庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつゝ
『小倉百人一首』の歌である。
昭和53年(1978年)、建立。
近江神宮で「かるた名人位・クイーン位決定戦」が開催される。
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