このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
正岡子規の句碑
芋坂も団子も月のゆかりかな
JR京浜東北線田端駅東口を出て線路沿いの道を行くと、善性寺の前に
「羽二重団子(HP)」
の本店がある。
文政2年(1819年)、「羽二重団子」創業。
団子の由来
江戸文化開花期の文化文政の頃、遙かな荒川の風光に恵まれたこの辺り日暮しの里は、音無川のせゝらぎと小粋な根岸の三味もきこえる塵外の小天地でありました。
文政2年、小店の初代庄五郎がこゝ音無川のほとり芋坂に「藤の木茶屋」を開業し、街道往来の人々に団子を供しておりました。
この団子がきめが細かくて羽二重のようだと称され、そのまゝ菓名となって、いつしか商号も「羽二重団子」となり、創業以来今も江戸の風味と面影を受け継いでおります。
創業期の「藤の木茶屋」から明治22年までの「羽二重団子」
店舗の脇に
正岡子規
の句碑がある。
芋坂も団子も月のゆかりかな
『寒山落木』
(巻三)に「
芋阪に名物の團子あり
」とある。
上野の芋阪を下りた所に團子を賣る店があつて、芋阪の團子といつてこれは名物になつてゐた。子規の歿後毎年の子規忌に、遺族はその團子を大龍寺に持つて來られて集つた者に振舞はれることが習はしになつてゐたが、昨今はこの團子の店がなほ存續してゐるかどうか。
高浜虚子
『子規句解』
明治27年(1894年)、子規27歳の句である。
根岸名所ノ内
芋阪の團子屋寐たりけふの月
根岸雜詠ノ内
芋坂に芋を賣らず團子倍る小店
『俳句稿』
明治30年(1907年)、子規30歳の句。
秋昔三十年の團子店
名物や月の根岸の串團子
明治31年(1898年)、子規31歳の句。
一茶の句に「
そば時や月の信濃の善光寺
」がある。
こゝに石橋ありて芋坂團子の店あり。繁盛いつに變わらず。店の内には十人ばかり腰掛けて喰い折り、店の外には女二人彳
(たたず)
みて團子の出來るを待つ。根岸に琴の鳴らぬ日はありとも、此店に人の待たぬ時はあらじ。戯れに俚歌を作る。
根岸名物芋坂團子賣りきれ申し候の笹の雪
「道灌山」
「道灌山」
は明治32年10月2日発行の新聞「日本」に掲載された正岡子規の紀行文。
「羽二重団子」は「芋坂の團子」として
夏目漱石
の『吾輩は猫である』にも登場する。
「行きませう。上野にしますか。芋坂へ行つて團子を食ひませうか。先生あすこの團子を食つた事がありますか。奥さん一辺行つて食つて御覧。柔らかくて安いです。酒も飲ませます」と例によつて秩序のない駄辯を揮つてるうちに主人はもう帽子を被つて沓脱へ下りる。
明治38年(1905年)1月より翌年8月まで雑誌「ホトトギス」に『吾輩は猫である』連載。
「芋坂の團子」は安かったのかも知れないが、「羽二重団子」は決して安くはない。
明治38年(1905年)10月23日、日露戦争凱旋観艦式。その翌々日、秋山真之は
子規庵
を訪れる途中で羽二重団子に立ち寄った。
「めしがあるかな」
と、茶店に入るなり、松山なまりで小女にいったために、返事もしてもらえなかった。この茶店は「藤の木茶屋」とよばれて江戸のころからの老舗なのである。団子を売る茶屋で、めしは売らなかった。その団子のきめのこまかさから羽二重団子とよばれて往還を通るひとびとから親しまれている。
「団子ならありますよ」
と、小女がいった。真之はやむなく団子を一皿注文した。
「鶯横丁はすぐそこじゃな」
「半丁ほどむこうです」
「正岡子規という人の家があるが、知っておいでか」
ときいたが、小女は子規の名も知らなかった。真之はだまって団子を食った。
『坂の上の雲』(雨の坂)
久保田万太郎
の色紙があった。
芋坂の団子さげたる賀客かな
正月の風景である。
昭和7年道路改正により外装改築
昭和46年(1971年)までの店舗
正岡子規の句碑
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