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子規の句
高浜虚子『子規句解』
昭和21年(1946年)4月14日、序。
菎蒻につゝじの名あれ太山寺
(明治廿五年)
松山から一里ばかり離れた處に三津といふ港があつて、それが其時分松山から他に旅行する時の唯一の港であつた。現在は高濱といふ港が其近傍に出來て、其方に汽船が主として發著するやうになつたのであるが其頃は未だ其處は一漁村に過ぎなかつたのである。其の三津の近傍に太山寺といふ山があつて、そこには太山寺といふ寺がある。菎蒻が其處の名物であつてそれを太山寺菎蒻といつて、松山あたりの人々は特に賞翫して居た。そのまた太山寺には躑躅の花が見事であつた。そこで蒟蒻には太山寺菎蒻といふ名前があるが、又つゝじ蒟蒻といふ名前があつてもいゝではないか、と戯れて言つたものであらう。私の子供の時分には太山寺菎蒻といふのは名物であつたが、今は果してどうであらうか。躑躅の花も尚盛りであるかどうか。
下闇や八丁奥に大悲閣
(明治廿六年)
明治二十五年の十一月に、私は子規と嵐山に舟遊したことがあるが、其時、舟を下りて大悲閣登つたかどうかはつきりした記憶が無いのである。がたゞ子規が、「花の山二丁登れば大悲閣」といふ、芭蕉の句のあることなどを話題に上せたかと思ふ。この句は、その芭蕉の句の二丁とある距離を訂正したやうな物であつて、なかなか二丁どころではない、木下闇を縫うて大悲閣まで登つて見たが八丁もあつたらうか、といふのである。大悲閣は私も訪ねたことがあつて角倉了以の木像の眼が光つてをつたことを覺えて居る。
蕣や君いかめしき文學士
(明治廿六年)
朝顔は立派な花をつけている。漱石は新たに文學士になつてやつて來た、といふだけの句であるあるが、子規も大學につゞけて居さへすれば共に文學士となつたのである。自分から好んでゞはあつたが、併し病氣のためもあつて、大學を中途退學した。「前にも「孑孑の蚊になる頃や何學士」といふ句があるやうに、もとの同窓生が何學士といふ肩書を背負つて世の中に出て來るのを見ると、多少の感慨が無いでもない。殊に親しい交りを呈した漱石が、文學士といふ肩書を持つてけふ改まつて子規のところへ來た、といふやうな感じである。
蕣に今朝は朝寢の亭主あり
(明治廿六年)
この句はおそらく東北の旅を終へて歸つた時の句であらうと思ふ。子規は元來朝寢坊であつた。それといふのも、夜更かしをして仕事をする癖があつたので自然朝寢をする傾きになつたものであらう。子規の留守中はお母さんも妹さんも、朝早く起きて拭掃除も早く出來る日がつづいたのであるが、子規が歸つて來ると、旅疲れもまじつて忽ち朝寢坊の主人がある家になつた、と云ふことをいつたものである。
芋阪も團子も月のゆかりかな
(明治廿七年)
上野の芋阪を下りた所に團子を賣る店があつて、芋阪の團子といつてこれは名物になつてゐた。子規の歿後毎年の子規忌に、遺族はその團子を大龍寺に持つて來られて集つた者に振舞はれることが習はしになつてゐたが、昨今はこの團子の店がなほ存續してゐるかどうか。
漱石が來て虚子が來て大三十日
(明治廿八年)
漱石と子規との交友は密であつたし、漱石と私との交友は密であつたのであるが、子規・漱石・虚子と三人が出逢つたことは極めて稀であつた。松山に子規が大學生であつた時分に歸省した、其時同じく大學の學生であつた漱石が訪ねて來た。其時私も行き合わせて三人で出逢つた事が一度、それから此の時、即ち明治二十八年の大晦日に子規の根岸の家で漱石と私と一緒に出逢つたことが一つ。その他にはもう出逢つた記憶はないのである。
朝寒やたのもとひゞく内玄關
(明治廿八年)
正宗寺といふのは松山の末廣町といふ所にある禪寺である。此處には現在子規堂といふ建物がある。そこには子規の埋髪塔、鳴雪の髭塚等がある。今はそれらのために俳諧巡禮の札所と言つたやうなものになつてゐる。その正宗寺には現在京都妙本寺の長老の一人である釋佛海といふ人が其頃ゐた。其時分はまだ若い坊さんで、一宿と號して俳句も作り、松風會員の仲間であつた。私も同席して一緒に俳句を作つたこともあつた。此の一宿を、或る日子規が訪ねた時分に、正宗寺の庫裏の内玄關で「頼のもう」と言つた、其聲ががあんと響いた、といふ句である。此句も現在の正宗寺の玄關の這入口の丸い石に刻まれてをる。これも正宗寺の俳蹟の一つになつてをる。因みに、その子規が訪ねた頃の正宗寺は燒けてしまつた。久しく假建築のまゝであつたが、現在の住職の盡力で淨財を集めて昨年であつたか其再建が成就したのであつた。
秋風や高井のていれぎ三津の鯉
(明治廿八年)
この「高井のていれぎ」を詠んだ句は前にもあつたのであるが、これは伊豫節と稱へる俚謡のなかに松山地方の名物として算へられてゐる。その俚謡といふのは「伊豫の名物名所。三津の朝市道後の湯。音に名高き五色素麺。十六日の初櫻。吉田さし桃小かきつばた。高井の郷のていれぎや。紫井戸の片目鮒。薄墨櫻や緋の蕪。ちよいと伊豫絣」それはごく清冽な泉のほとりに生えてをる水草であつて、この前にも言つた通り刺身のつまなぞに用ゐられる。
秋の山御幸寺と申し天狗住む
(明治廿八年)
これは松山の北郊にあつて、御幸寺と書いて「みきじ」と訓むのである。岩骨の露出してをる山であつて、稀に松が生えてをる。その山の姿がさも天狗でも棲んでをるであろうと思はれる形をしてをる。此山に登らうとして墜落した者がありでもした處からそんな噂を生んだものであらうか。とにかく私も子供の時分、御幸寺には天狗が棲んでをると言ふことを聞いて、恐ろしく感じてをつたものである。
うそのような十六日櫻咲きにけり
(明治廿九年)
松山の北郊山越の龍穏寺という寺に舊暦正月の十六日には必ず咲くといふ櫻がある。それは昔一人の孝子があつて、その父が死ぬる前に櫻の花の咲くのを見て死にたいと云つた。それを孝子が佛に祈願して早くも正月の十六日に花が咲いて父の生前に間に合つた。それから正月の十六日には必ず咲く、といふ言ひ習はしである。これを孝子櫻ともいうてをる。別に珍らしいものでも無いのか鎌倉の私の宅の庭前にもそれに似た櫻がある。寒櫻の一種でもあらうか。
絶筆三句
絲瓜咲て痰のつまりし佛かな
(明治卅五年)
痰一斗絲瓜の水も間にあはず
(明治卅五年)
をとゝひのへちまの水も取らざりき
(明治卅五年)
辭世の句となると、死の感想を陳べたものが多いが、此の句は世を辭する時のたゞ事實を陳べた迄である。特に辭世の句と銘をうつたわけではないが、さう意識して句を認めたことはたしかである。併し唯其場合の寫生句である。それがいかにも子規らしい。十五夜に絲瓜の水を取るといふ習はしがある。子規が死んだのは十七日であつた。
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