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今年の旅日記

正宗寺〜子規堂〜
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松山市末広に正宗寺という寺がある。

山門右の石柱に 斎藤茂吉の歌 が刻まれていた。


正宗寺の墓にまうでて色あせし布団地も見つ君生けるがに

 大正10年(1921年)3月20日、 斎藤茂吉 は正宗寺を訪れ、 道後温泉 に1泊している。

山門左の石柱に 与謝野晶子の歌 が刻まれていた。


子規居士と鳴雪翁の居たまへる伊予の御寺の秋の夕暮

『与謝野晶子全集』(第6巻)「緑階春雨」収録の歌。

 昭和6年(1931年)11月2日、 与謝野寛・晶子 夫妻は正宗寺を訪れ、 道後温泉 に泊まっている。

正宗寺本堂


臨済宗妙心寺派 の寺である。

天龍山 別格 正宗禪寺

 その昔 松山城 天守閣の余材で建立

 寛永12年、 桑名藩 主久松定行が松山に移って松山城を五層六重の天守閣から三層四重に改装後、城代家老・奥平氏の尽力により、その余材で当正宗寺を建立する。

 妙心寺派の禅僧密山演静禅師を開山として迎える。有名な高僧白隠禅師も若い頃修業をしたと伝えらえている。また第十六世住職釈仏海禅師は一宿と号し、子規とは子供の頃からの文学仲間であった。子規にとっては、正岡家の菩提寺でもあり縁も深く、学生時代からの親友 夏目漱石 とともに寺の句会に度々訪れている。

   名月や寺の二階の瓦頭口

   朝寒やたのもとひびく内玄関

昭和2年(1927年)、 法龍寺 にあった正岡家累代の墓が正宗寺に移された。

本堂の前に「千代の富士の記念碑」があった。


秋晴れて両国橋の高さかな

明治28年(1895年)、子規が秋場所を詠んだ句。

『子規全集』(第二巻) 「寒山落木 巻四」 (秋 秋時候雑)に所収。

1045勝、前人未到の記録を成し遂げた五十八代横綱千代の富士貢、現九重親方。ここにその栄誉をたたえ 現役時代から親交のあった正宗寺第二十世住職により、子規の句をそえ、記念し建立する。

土台は土俵になっていたようだ。

本堂の手前左手に 子規の句碑 があった。


朝寒やたのもとひゞく内玄関

出典は 『散策集』

  愚陀佛庵 に漱石と同居していた子規が明治28年10月7日、今出の村上霽月を訪れる途中、住職で俳人の一宿和尚を誘うため正宗寺へ立ちより、案内を乞うた時の趣をそのまま句にした。句碑の文字は『散策集』の筆蹟を拡大。

松山市教育委員会

『俳句の里 松山』

 『子規全集』(第二巻) 「寒山落木 巻四」 (秋 朝寒)に「正宗寺一宿を訪ふ」として所収。

 正宗寺といふのは松山の末廣町といふ所にある禪寺である。此處には現在子規堂といふ建物がある。そこには子規の埋髪塔、鳴雪の髭塚等がある。今はそれらのために俳諧巡禮の札所と言つたやうなものになつてゐる。その正宗寺には現在京都妙本寺の長老の一人である釋佛海といふ人が其頃ゐた。其時分はまだ若い坊さんで、一宿と號して俳句も作り、松風會員の仲間であつた。私も同席して一緒に俳句を作つたこともあつた。此の一宿を、或る日子規が訪ねた時分に、正宗寺の庫裏の内玄關で「頼のもう」と言つた、其聲ががあんと響いた、といふ句である。此句も現在の正宗寺の玄關の這入口の丸い石に刻まれてをる。これも正宗寺の俳蹟の一つになつてをる。因みに、その子規が訪ねた頃の正宗寺は燒けてしまつた。久しく假建築のまゝであつたが、現在の住職の盡力で淨財を集めて昨年であつたか其再建が成就したのであつた。

高浜虚子 『子規句解』

子規と野球の碑


 正岡子規は、わが国野球草創期に選手として活躍、明治20年代はじめて松山の地にこれを伝えた。最も早くベースボールの技術、規則を訳述解説し、その妙味を強調してひろく世に推奨、「野球」の名付け親と称される。また短歌、俳句、小説など文学の題材に初めてこれを取り入れた。実に子規はわが球界の先駆者であり、普及振興の功労者である。

   打ちはづす球キャチャーの手に在りて
      ベースを人の行きがてにする

   今やかの三つのベースに人満ちて
      そゞろの胸の打ち騒ぐかな

(明治31年ベースボールの9首のうち)

 ベースボールの歌(9首のうちの2首)は新聞「日本」に明治31年5月24日発表。

 若き日の子規はスポーツマンで野球に熱中して「ベースボールほど愉快にみちたる戦争は他になかるべし」と書き残している。(明治21年「筆任せ」)

松山市教育委員会

『俳句の里 松山』

「坊ちゃん列車」の前に夏目漱石の像があった。


『坊つちやん』を書いた人

停車場はすぐ知れた。切符も訳なく買った。乗り込んで見るとマッチ箱の様な汽車だ。ごろごろと五分許り動いたと思ったら、もう降りなければならない、道理で切符が安いと思った。たった三銭である。

小説『坊つちやん』より

 昭和21年(1946年)11月、正宗寺でホトトギス600号記念会。席上、虚子の句碑建立のことが決まる。

笹啼が初音になりし頃のこと

      九月八日 昨年松山正宗寺に於ける『ホトトギス』六百号記
      念会席上に『ホトトギス』を創刊したる柳原極堂もありし。
      同寺に建つる句碑の句を徴されて。


虚子の句碑


松山にてホトトギス六百號記念会 極堂も席に在り

   笹啼が初音になりし頃のこと

昭和24年(1949年)10月24日、建立。

 俳誌「ほとゝぎす」は、明治30年 柳原極堂 が子規の支援によって松山で創刊し、20号まで発行。その後高浜虚子が継承したもので、昭和21年11月「ホトトギス」六百号記念会を当寺で催し、昭和24年10月24日記念句碑建立となった。

松山市教育委員会

『俳句の里 松山』

 松山市末広町正宗寺境内には子規堂前側に「正岡子規之碑」と題した頌徳碑が再建され、またその墓地には子規居士の埋髪塔が、内藤鳴雪の髭塔と並んで営まれて居る。そして墓地の入口手前には、昭和二十四年十月、ホトトギス六百号を記念するために、この句碑が建てられた。高さ約八尺、幅五尺の自然石で、句の前書には「松山ホトトギス六百号記念会極堂居にて」とある。柳原極堂翁は子規居士と同郷同年の盟友で、日本派の俳人。明治三十年一月俳誌ホトトギスを松山に創刊し、翌年八月の第二十号終刊までいわゆる「松山版 ホトトギス」を主宰し、今なお同地自宅で健在である。


「昨年松山正宗寺に於けるホトトギス六百号記念会席上に、ホトトギスを創刊したる柳原極堂もありし。同寺に建つる句碑の句を徴されて」とある。正宗寺にこの句は句碑になつて建つて居る。

『虚子一日一句』 (星野立子編)

鳴雪先生髭塔と子規居士髪塔


子規居士髪塔

 裏面に、「明治三十七年九月十九日樹」とある。子規は明治35年9月19日死去、10月28日ここで遺髪埋葬儀式と追悼会が行われ、三周忌にこの髪塔が建立された。文字やデザインはすべて親交のあった下村為山による。昭和23年10月28日、県の「記念物・史跡」に指定された。

明治36年(1903年)1月3日、 河東碧梧桐 は「子規子髪塔」に詣でる。

   三日子規子髪塔に詣づ

土凍てゝ栴檀の實の落ちてあり


鳴雪先生髭塔

 裏面に、「髯塔 昭和三年五月建」とある。 鳴雪 は大正15年2月20日没。三回忌に建立したもの。この塚も下村為山の設計による。髯はあごひげ。正面の図柄の「あごひげ」が納めてある。鳴雪と為山は従兄弟の間柄である。

   詩は祖父に俳句は孫に春の風   鳴雪

松山市教育委員会

『俳句の里 松山』

与謝野晶子の歌碑


子規居士と鳴雪翁の居たまへる伊予の御寺の秋の夕暮

 昭和15年(1940年)3月15日、 山頭火 は正宗寺を訪れている。

 三月十五日 曇。

未明起床、身辺整理、静座読書。

早朝、護国神社参拝、 道後 入浴、余寒春寒、そゞろに寒い。

——たうとう塩まで無くなつてしまつた!

午後はいつものやうに松山散策、——正宗寺拝登、子規堂、子規居士鳴雪翁埋髪塔、本堂のないのはさびしい。

『松山日記』より

 同年9月19日、山頭火は正宗寺へ子規忌の墓参に訪れている。

 九月十九日 秋晴。

夕方から正宗寺へ、子規忌なのでお墓まゐりをした、帰途、汀火骨居を見舞ふつもりだつたけれど、気分が滅入るので、亀屋でうどん二杯食べて(それは夕飯で、その代金十二銭はもつてゐた、)そのまま帰庵、十日ぶりに街へ出かけたのだが、すこしうるさく感じた、そしてつくづく視力の弱つたことも感じた、栄養不良のためだらう、いや、ガソリンが切れたせいだらう!

『一草庵日記』

   子規忌、子規堂

句碑へしたしく萩の咲きそめてゐる

   子規墓畔

ならんでお墓のしみじみしづか

『愚を守る』(松山時代)

同年10月11日早朝、山頭火は 一草庵 で死去。

子規堂の前に子規「旅立ちの像」があった。


史跡 子規堂へようおいでたなもし

  正岡子規 、本名正岡常規。慶応3年9月17日松山市に生まれる。明治35年9月19日36歳で死去。子規17歳、我が国に入って来たベースボールを幼名から升(のぼる)と野の球とをかけ合わせて野球と云う言葉をつくったと云われる。やがて松山の地に初めて野球を伝えた。明治25年日本新聞社の社員となる。日清戦争に従軍記者で活躍、28年東京時代の学友であった夏目漱石が松山中学の教壇にたっていた。漱石の下宿、愚陀仏庵に子規が同居し、この時松山の新派俳句は興ったと云われている。新聞「日本」の俳句雑誌、「ホトトギス」等によって子規は日本新派俳句を全国に普及させた。また、叙事文、写生文を提唱し当時の小説家達に影響を与えた。子規堂は文学なかまであった正宗寺住職仏海禅師が業績を記念して、子規が17歳で上京するまでの住居を寺の中にのこした。子規堂前の「坊っちゃん列車」は漱石の小説「坊っちゃん」でも有名である。

居間(六畳)


玄関わきの三畳の部屋が出来るまで、子規はこの窓際に机を置いて、勉強をしていたと言う。

子規の勉強部屋


この三畳の小部屋は、子規が松山中学に入ってから増築してもらった勉強部屋で、天井もない粗末なもの。この部屋で作った文章には、櫻亭仙人(13歳)、老櫻漁夫(14歳)、香雲散人(15歳)等と皆櫻に因んだ雅號を用いているのは、庭の櫻の老樹の影響と言う。「子規」という號は明治廿二年数え年廿三年の時につけたもの。

 昭和23年(1948年)、 富安風生 は正宗寺を訪れている。

   松山正宗寺 にて

ゆくりなくここの子規忌に値遇の縁

『朴若葉』

 昭和35年(1960年)11月29日、山口誓子は子規堂を訪れた。

 子規の 中の川の家 が、末広町一丁目の正宗寺内に復元され、戦後再建された。それが子規堂だ。勉強部屋も附いている。

 正宗寺の玄関の前に子規の句碑がある。低い自然石。

   朝寒やたのもとひびく内玄関

 「頼もう」と内に声を掛けたのだ。句はこの寺で詠まれた。昭和二十八年建立。

 墓地の入口に子規の埋髪塔があって、子規の横顔が彫られている。郵便切手になったあの横顔だ。それを下村為山が描いた。明治三十七年の建立だからこれは古い。

『句碑をたずねて』 (四国・九州路)

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